首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に
これら一連のコンテンツは2014/8にブログに掲載したものを加筆し、Webコンテンツにしたものです

 首里城御内原の一部が2014(H26)年1月に復元公開され訪れた。表と奥をつなぐ近習詰所と奥書院、そして王家の私的空間の黄金御殿と寄満だ。 隣接する二階御殿はすでに復元されていたが、今回は見学の対象外であったのは残念であった。

 現在はすでに復元されている継世門に続く、美福門と世誇殿や女官詰所などを復元中で、近い将来に御内原全体が公開される。 これらの復元の基礎資料となった3枚の建物配置図面がある。それぞれ数10年の時代差があり微妙に差異点がある。



 一番古いのは維新政府が琉球を併合し乗込んできた熊本鎮台軍の概略図。 明治13年頃の図とされ未だ近代測量技術の基礎がなかった頃で正確ではないが、古絵図・古地図しかなかった首里城の、建物配置がはじめて描かれた図面だ。


 ついで明治18年〜大正2年まで県知事官房職を務めた横内扶が、在職中に執筆した1万7千余点もの膨大な資料に、首里城の極めて正確な建物配置図が含まれていた。 この貴重な第一級の資料図面が首里城復元の基本として用いられた。


 そして、取り壊し目前を救った 鎌倉芳太郎のお陰で保存が認められ、昭和9年に文部省の坂谷技官が測量した図面がある。すでに首里城は沖縄神社として面影をとどめていないが…


【追駄言】
 横内図と坂谷図はネットから入手したので、当該の目的に添って一部に塗りつぶしがある。 できればオリジナル(の画像)を手に入れたいと思う。3枚の配置図を比べると処々に差異点が見受けられ、その違いはなぜなのか興味津々である。

 首里城の遺構発掘調査は「横内図」を基本に行われている。表の御庭(ウナー)を取り囲む正殿や南殿・北電・奉神門など、横内図と遺構がほぼ一致し復元が終わって公開されている。 完全復元は正殿だけで他は鉄筋コンクリの外観復元だ。

 したがって見学ルートの南殿・北殿は展示場と土産物売り場で、間取りは復元されていず往時の冊封使接待や、評定所がどんな間取りであったかは全く無視されている。 テンペストの孫寧温の評定所は北殿のどのあたりで仕事をしていたのか?

 ネットでは間取り図も見当たらずトイレはあったのか? 宦官と偽る眞鶴はどこで用を達していたのか!?  先ごろ公開された国王・王妃・王母が暮らした黄金御殿も間取りが復元されていず、王族はオマルを使ったらしい。

 間取りの復元は正殿と表の書院・鎖之間、御内原の奥書院だけ(先に復元された二階御殿は未公開)で、王家の生活感がまるで伝わってこない。 まぁ、表はともかく御内原は男子禁制で資料が残っていないらしい。しかし、世添殿・世誇殿・女官詰所は間取り図がネットで公開されている。

 未婚王女が普段使っていた世誇殿の北に「湯屋」があった! 他の建物に風呂場とかトイレがあったのかなかったのか?  もし風呂場が湯屋だけだったら後之御庭の南の、黄金御殿に住んでいた国王家族や、夫人・妾は、グルリと渡り廊下を遠回りして湯屋に?