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首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に

 明治維新政府は1879(明治12)年3月25日、処分官松田道之とともに、熊本鎮台分遣隊2個中隊400名余が那覇港に到着。 同27日松田処分官が沖縄県設置、首里城明け渡し等の処分を断行し、31日分遣隊の一個中隊が首里城に入城した。
 日清戦争後の1896(明治29)年7月、分遣隊の沖縄派遣が終了した。

 熊本鎮台の作成した建物配置図は、いまだ近代測量技術の習得中にあって、正確さに難点はあるものの、 それまで古絵図・古地図にしか描かれたことがない首里城の、はじめての建物配置図であったろうことは疑いはない。 後の正確な横内図と比較すると疑問点が多々あっるが今回はさておく。



(赤文字は筆者記入)

御庭 熊本鎮台駐屯所 指揮所・四小隊 警備体制 
鎖之間 中隊長官舎 貴賓客間 中隊規模に4小隊体制で首里城を警備していた。医官等を合わせ300人ほどと思われる。

地図に描き込まれた各小隊の動線(鎖線)から推定すると;
第一小隊:御庭-北殿/奉神門経由ー歓会門・久慶門警備。
第二小隊:御庭-奉神門経由-西のアザナ警備。
第三小隊:御庭-正殿/北殿経由-日影台・東北城壁警備。
第四小隊:御庭-黄金御殿左掖門経由-寝廟所(火薬庫)・東のアザナ・継世門警備。
中隊参謀:御庭-南殿/奉神門経由-南のアザナ警備。

いずれも旧士族(頑固党)の侵入を阻止するためと推定。
南殿・書院 士官官舎 薩摩接待室・国王執務室
奥書院 医官宿舎? 御内原国王休憩室
黄金御殿 医営官舎 診察室? 王家居室
二階御殿 病室 王子・王女居室
正殿 兵士寝室 王国議会所
北殿 自習室 冊封使接待所・評定所
西之当蔵 御内原物置?
銭蔵 炊事・浴室 泡盛蔵
奉神門 営倉
寝廟所 火薬庫 国王遺骸安置所
世添殿
世誇殿
女官居室
金蔵
佐敷御殿
空室  妻妾居室
未婚王女居室
城人居室
金庫室
王妃居室

 熊本鎮台の駐屯は17年余にのぼるが、その間・その後の首里城の荒廃は凄まじっかったようである。 その退廃ぶりをうかがわせる「ゆんたく徒然」ブログに詳しい。 次回は「鎮台図」の疑問点を個別に取り上げていく予定をしている。



正殿前で立哨する熊本鎮台兵、南之廊下や左掖門(暗シン御門)や黄金御殿・近習詰所が見える
 

【追駄言】
 首里城に駐屯した熊本鎮台隊は琉球を併合した、いわば戦勝国として乱暴狼藉を働いたらしい。
士官はかっての藩士出身だが兵卒は百姓で、風紀所や営倉を設けたことでも推測できる。
17年の駐屯が終わるときにめぼしいものを剥ぎとって還ったらしい。

 1882(明治15)年に首里城を訪れた英国の学者ギルマードは、「およそこれ以上の物淋しい光景は想像できない」、とまで書いたというから想像を絶する略奪だったらしい。