首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に

 明治13年の熊本鎮台図(1)では、正殿前の「御庭(うなー)」を方形として描いている。 実は御庭は「方形」でなく『台形』が正解で、明治中期の横内図(2)でも昭和6年の坂谷図(3)でも台形で、発掘調査の四方の遺構でも裏付けられている。



 正殿を正面から見ると御庭中央の「浮道」が斜めなのがわかる。その向かう先は奉神門(の中門)にたどり着く。 なぜ浮道を斜行させ奉神門の中門に向かわせたのか?  それはその先の下之御庭(したぬうなー)にある「首里森御嶽(すいむいうたき)」を正殿の玉座から見るためだ。


 元は方形であったろう御庭と四周の建物は、何度目かの火災後の再建時に角度を変えられた。その目的が首里森御嶽で聞得大君の指図だろうか?   正殿と北殿は直角で南殿と奉神門も直角だが、少し角度がずれている。すべては首里森御嶽のためだ。
 

 首里森御嶽を背にして奉神門を見るとその彼方に、正殿の唐風波風屋根が望めてその下に玉座がある。 王国の政事を執り行なう御庭は神聖であるべきだと、聞得大君は国王のオナリ神として奉神門を曲げてしまったのかもしれない。


奉神門からみた下之御庭にある「首里森御嶽」
 
【追駄言】
 きょう(2014/8/9)は旧盆のナカヌヒーで各家では昨日のウンケーでお迎えした、先祖や物故者親族とともに一日を過ごしたことであろう。 明日のウークイでは各地でエイサーが各戸を周り、再び無事に安心してグソー(あの世)へ戻れるよう、供養して部落中を道ジュネーするであろう。

 首里の旧士族家ではかってはニンブチャー(念仏者)を呼んで、門付けで念仏吟詠でウークイをしたという。 首里城では聞得大君と神女らが何かの神事をしたのだろうか。王家は仏教にも帰依し歴代国王は安里の崇元寺に祀り、首里城外には円覚寺を建立したが…


 本来のエイサーは、ニンブチャー(念仏者)と河原者のチョンダラーが起源、その「古式エイサー」継承・保存する動きが一部に出てきたようだ。沖縄タイムスには「男女の手踊りが特徴的な南城市佐敷・手登根区の古式エイサー」の 記事が掲載されていた。「古式」といわれるにんぶちゃーは南無阿弥陀仏と唱えて始まり、ウークイが終わっても、この世をさまよう霊を慰めあの世に送る」と