首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に

 首里城3枚の地図シリーズは(1)熊本鎮台駐屯隊の建物配置図(鎮台図)、 (2)横内扶県知事官房職の測量図(横内図)と(3)坂谷良之進文部省技官首里城修理図(坂谷図)の、 3枚の地図を取り上げているが他にも絵図類も散見される。中でも詳細に描かれた掛け軸の絵図を紹介する。



友寄喜恒画「首里城図」部分加筆 明治14年頃 沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫より

 この絵図は明治14年頃に描かれたものでその詳細さから、首里城再建の際の重要な資料とされ色彩を含め、全体像を把握できる資料として活用されたらしい。 実は首里城の情報をかき集めた中でもっともイメージしやすい画像であると思っている。

 この絵図が熊本鎮台の駐屯翌年ごろに描かれ、その鎮台図との差異点が際立っているのが貴重だ。 もちろん絵師の想像や過去の見聞・記憶を含めて描いたであろう。したがって正確性は疑問として細部にいたるまで、詳細に描き込まれておりほれぼれとする。

 建物のほとんどが描きこまれており縮尺も程よく、遠近感も違和感なく強調されており素晴らしい。 しかし、正殿から奉神門への浮道も正しく描かれているが、首里森御嶽は脇に描かれ延長線上に鎮台図にはない、系図座・用物座が描かれているのはご愛嬌か?

 下に掛け軸の絵の部分全体を掲げておく;


手前の中山門(現存せず)から最奥のアガリ(東)之アザナ(物見台)まで見事に描かれている
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友寄喜恒画「首里城図」(沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫)解説文

 首里城と那覇港を描く「首里城那覇港図」は琉球王国時代にいくつも描かれ、現在も多数現存しています。 首里城のみを描いた作品、那覇港のみを描いた作品を含め、琉球絵画最大のテーマの一つだったとみられます。 王国時代の公的な絵師であった友寄喜恒(1845-1885) が明治以降になって首里城のみを描いたこの作品もその系譜に属するものです。

 このような首里城や那覇港を描いた作品は、琉球王国時代には中国からの外交使節団などを歓待する際に屏風絵として飾られたり、 このような掛け軸(かけじく)に仕立てられて贈り物とされていたようです。

 明治時代に入ってからは、王国時代を懐かしむ人々の依頼に応じて画家が描いたり、東京から来る明治政府の役人らを歓待する席に飾ったり、贈り物としたものと考えられ、 喜恒の作品もそうした一つでしょう。同じ画題でも時代が変わると鑑賞の仕方も変わるというわけです。

 また王国時代〜明治時代頃にかけての首里城図は、戦後(1945年〜)の首里城再建の際の重要な資料とされました。 正殿(せいでん)などを部分的に撮影した写真はありましたが、色彩を含め、全体像を把握できる資料として絵画資料が活用されたのです。

 もちろん、それぞれの首里城図は、画家の視点によって描きたい部分のみ正確に描かれてますから、 あくまで参考資料ということですが(首里城の細部がどうであったかについては現在も様々な議論があります) 、こうした作品が、実作業上においても心理的にも、首里城再建を目指す人々を大いに助けたことは確かでしょう。

 喜恒「首里城図」は、松を中心とした木々の柔らかい空間と建造物のシャープな線の対照が特にすぐれた作品ですが、 この絵において最も特徴的なのは、絵全体の中で朱色(しゅいろ)の使用を控えた上で、 各門に掲げられた額(がく)と首里城正殿の正面入り口のみを鮮やかな朱色で描いていることです。額にはそれぞれの門の名称が書かれています。

 すべての門の額が朱色で描かれていますが、首里城を訪れた人であれば、通常使用される各門に掲げられた朱塗りの額を眼でたどっていくと、 画面下方に大きく描かれた守礼門から歓会門へ、さらに瑞泉門、漏刻門、そして奉神門から正殿へと至ることができるでしょう。

 また首里城に親しんだ琉球王国時代の旧士族らであれば、画面左上方の久慶門(主に通用門として使用)・右掖門(王族の私的エリア「御内原(おうちばる)」へ入る門)など、 すべての門を行き交(か)う王国時代の人々が幻視されるかも知れません。

 また、多くの「首里城那覇港図」が首里城、那覇港を行き交う人々を賑やかに描いているのに対し、この絵には人物が全く描かれません。 喜恒の描いた「無人の首里城」と「各門の朱色の額」は私たちに何を語りかけているようです。