首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に

 明治13年から首里城に駐屯していた熊本鎮台兵は、日清戦争後の明治29年に撤収し、明治政府は首里城を首里市に払い下げた。 横内知事官房職は明治18年に着任し、大正2年まで沖縄に在任し主として教育行政に携わった。

 横内は首里市が下之御庭を西に拡張造成し、第一小学校を建設したことにも関わりを持っただろう。 首里市はその後どのような管理をしたのか調べていない。鎌倉芳太郎が大正10年から女子師範や、一高女で教鞭をとる傍ら首里城も観察記録を撮っていた。

 大正12年に沖縄神社を首里城に創建する許可が下り、正殿を拝殿として活用する傍ら本殿を金蔵跡に、世誇殿を女官居室跡に移築するなどし大正14年に完成した。 後に正殿(神社拝殿)が鎌倉などの活躍で国宝に指定されることになった。

               首里城3枚の地図 (追記編)首里城への坂道

 正殿の国宝指定を受けて文部省から改修のため、昭和3年に坂谷技官が着任し調査をはじめた。 昭和6年に坂谷が描いた平面図が「坂谷図」であり、入手した図面では見難いが現存の建物を実線で、取り壊された建物は鎖線で描いている。



↑ 坂谷図全景 部分拡大図 ↓

 残存していた建物は正殿と南・北殿や書院・鎖の間、近習詰所・内書院・黄金御殿・寄満、そして二階御殿だけである。 系図座は小学校建設時に取り壊さて無いし、世添殿も神社の内庭の邪魔で取り壊さていた。 世誇殿は前殿が取り壊され後殿のみ、女官居室を取り壊して移築されていた。


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 下の画像はネットで入手した絵葉書と思われるが、左の人口着色の正殿は1・2階の外壁が板囲いで、右の写真は坂谷による改修後か腰板・窓枠が整っている。 その下の正殿前で空手の教練をしているのは、昭和13年の写真で忍び寄る戦争気配が感じられ、7年後には沖縄戦で破壊消失した。

 
【追駄言】
 坂谷図は製図はよいが手書きの文字が読みづらい。ネットで入手した画像はサイズは大きいものゝ、 複写の複製で解像度が劣化しているので、線や文字が読めなかった。

 それにしても廃藩置県/琉球処分で王国崩壊してから、お城に住む主が退去し入れ替わり立ち代りした、 駐屯・管理者の伝統的建造物を保存・保護・維持する意識がなく、荒れるに任せていた事情が目に浮かぶようで痛ましい。

 移住してからかなり琉球・沖縄史を勉強したが、どうしても興味のあるテーマに偏りがちで、琉球処分以降の近代史が抜け落ちていて、 首里城の崩壊過程を時系列に把握できていない。いずれにしても沖縄戦で何もかもが戦塵に埋もれてしまった。

 興味の方向はそれ以前の首里城で表の国王・王族や、三司官・表座敷の奉行など閣僚(紫冠)と、 評定所の高級官僚(黄冠)や下級現場職(赤冠)、そして無職の低級士族の仕事と屋敷・生活をもっと知りたい。 また王国の祭祀を取り仕切った聞得大君・神女組織、私生活を支えた御内原などなど…