首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に

 関係者間で『横内図』と呼ばれている図面がある。正確かつ詳細な図面で首里城復元の第一級資料となった。 横内扶(たすく)は元彦根藩士で廃藩置県の沖縄県に、知事官房職として明治18年から大正2年まで滞在した。 在職中に教育関係を中心に1700余点もの文書を残した。

 その文書の中に首里城の測量図が含まれていた。その詳細さからかなりの建築・測量・製図力のある技官に命じて作成されたと思われる。 しかし、何年ごろに作成されたかの情報は入手できなかったが、着任数年後とすると(1)鎮台図や(c)友寄絵図の10余年後と想像できる。





 実に正確かつ詳細であるが難点がいくつかある。最初に掲げたCG図は専門家が解読した建物群であるが、図面ではシロートには判読できない部分がある。 例えば正殿の平面には壁で仕切られた建物も [ 字型に一体に製図されている。間仕切りが記入されていないのでどこまでが正殿なのか判らない。

 ・2014年4月に公開された御内原の黄金御殿と寄満が正殿とL字型で繋がっている
 ・正殿上部(北)の西之当蔵が間仕切りなして「字型に繋がっている
 ・近習詰所・内書院とその下(南)の不明建物が繋がって描かれている
 ・南殿下(南)の鎖之間・書院と、奉行詰所もひとくくりで描かれている


 とくに@黄金御殿はB近習詰所と繋がっているはずだが、横内図ではクランク型通路で分断されている。 このクランク型通路こそ左掖門(テンペストの暗シン御門)であり、黄金御殿の建物はその上に乗っかている。 間仕切りが描かれていないのでシロートには判断しにくい。

 同じことがB近習詰所とC内書院にも言え、E鎖之間F書院G奉行詰所にもあり、想像をたくましくして間仕切りを赤線で上の図のように入れてみた。 Gは現存せず復元もされないようだ。H二階御殿は復元済みでI世添殿は平面展示の予定。J料理座K大台所も復元予定なしでL美福門は復元中。

 横内資料は沖縄県か那覇市のどこかの施設に寄贈されたはずだが、明記した情報が入手できずオリジナル画像の入手ができなかった。 次の(3)坂谷図は県立図書館にあるはずだが、貴重資料デジタル書庫には収録されていなかった。
 
【追駄言】
 横内図も建物一階部分の平面図でしかないようだ。だから正殿も繋がって建っている一階部分を一つの建物として測量・製図した。 黄金御殿は一階にクランク状の左掖門(暗シン門)通路があり、一階部分だけの平面図で分断され、二階の黄金御殿が覆いかぶさっているのを無視した。

 一階部分の平面図では機能・用途が異なる、連続した居室は特定できていない。 正殿の北側に位置する北殿への廊下や、西之当蔵とその東隣りの不明居室も、連続して一緒くたに描いている。 そう言う意味では正確だが(1)鎮台図と変わらない。次の(3)坂谷図のほうが居室を分けて描いている。