首里城「3枚の平面図」
(1)鎮台図 (a)概略図 (b)御庭形 (c)友寄絵 (2)横内図 (3)板谷図 (0)灰燼に

 昭和16(1941)年に開戦した太平洋大戦は、19年に那覇の大空襲(10・10空襲)で、沖縄が戦場化したことを県民は知った。翌20年4月1日の米軍上陸から戦火は首里に迫り、5月19日のシュガールーフの激戦を経て、首里城の司令部は島尻へ撤退を開始し、5月1日に灰燼に帰し首里城は制圧された。



米軍空撮写真 昭和20(1945)年4月2日

 米軍の偵察機が4月2日に首里城を空撮した写真を見つけた。くっきりと鮮明に映っている首里城は地下に日本軍の司令部があることをうかがえない。坂谷が国宝を改修して以来の経過は不明だが、この時点で残っている建物は数少ない。


 残っている建物は正殿・南殿・北殿と二階御殿だけである。後の御庭の片隅に世誇殿(後室)を移築した沖縄神社の社務所も見える。すでに鎖之間・書院も近習詰所・内書院・黄金御殿・寄満はない。下之御庭には小学校が系図座跡に建っている。

 この空撮からわずか2ヶ月後には首里城が灰燼に帰してしまった。
 
首里城3枚の地図 (復元編)よみがえる赤い城
 
【追駄言】
 図書館で戦前の首里城の保護に尽力した、鎌倉芳太郎の伝記「首里城への坂」が貸出中だったので予約をし、 発掘資料に首里城攻撃直前の米軍の空撮写真を見つけ、借りだしてきてスキャンをし本文に載っけた。 米軍制圧後の廃墟写真はネットでも見つからなかった。

 戦後は占領軍政下の琉球政府に歴史博物館が設置され、廃墟から遺物を掘り起こし作業をしたそうだ。 博物館は龍潭池に面した中城御殿(次王の世子屋敷で、明渡し後に国王が一時住んだ)跡に建てられ展示された。 その後の首里城址は琉球大学が完膚なきまで整地され建てられた