軽便嘉手納線<1>(本線)〜大謝名
表紙地図ページ                  糸満線
  
*お断り:このコンテンツは只今工事中です
 軽便は最初に開通した与那原線の、途中駅から嘉手納線と糸満線が分岐し、那覇〜国場間を共用していることから、「本線」と呼ぶことにした。
 従って本ページでは嘉手納線の分岐に伴い、設置された古波蔵の次、与儀〜嘉手納を紹介し、那覇〜古波蔵は本(共用)線を参照されたい。

 嘉手納線は当初、与那原線/糸満線の後に建設の予定であったが、資金難により糸満線が保留される中、費用対効果の経済的な要求で、先に建設されることになった。大正9年に着工され11年に竣工し営業をはじめた。設置駅は分岐点の古波蔵、与儀、安里、内間、城間、真志喜、大山、北谷、桑江、平安山、野国、そして終着の嘉手納まで、12駅23.6km。

 嘉手納線は沿線住民の足となるとともに、県の主要産業である製糖関連の輸送も担い、開通後すぐに製糖工場への側線、引込線も敷設され、サトウキビの搬入や製品の那覇港への輸送が開始された。車両は本土東北の仙北軽便鉄道が、国鉄石巻線となり広軌化(1,067mm)のため、不要になった英コッヘル製蒸気機関車4両、客貨車54両が払い下げられた。

 現在の嘉手納線は城間あたりから、国道58号線寄り添い北進しているが、米軍基地に接収された線路跡や駅も存在し、とくに野国は嘉手納機の滑走路下に埋めこめられてしまい、線路敷や駅舎跡をたどることができない。


* 嘉手納線は駅数が多く、本ページは長くなったので大謝名までとしました。真志喜〜嘉手納は別ページとして独立させました。

Google Map 上に赤い(押)ピンで、駅跡と推定される場所を示したが小さく見づらいので、クリックして拡大して御覧になることをお勧めする 

与儀(よぎ)
停車場(無人):大正12年増設、那覇市
古波蔵から与儀の丘を切り通しで登ると、桑畑が広がる与儀駅に、駅に隣接して農業試験場があり、
側線を通じてキビを満載した貨車が入線していたが、乗降客は少なく駅員は常駐していなかった

右手の現与儀公園が農業試験場跡か? 公園にはD51が展示保存されている

↑ 那覇/古波蔵の上り方向、左側が与儀公園、歩道橋の左向こうは那覇警察署 ↓ 下り方向

安里(あざと)
停車場(有人):大正12年開設、那覇市
与儀から築堤の高架となり、現ひめゆり橋を渡ると第一高女/女子師範の女学校前、軽便第3位の利用者は学生が大半

↑ ゆいレール安里駅上の赤ピンが軽便駅跡、その右上の赤ピンが路面電車の女学校前

↓ 安里駅ホームの女学生 ↑ 現ひめゆり橋は下の赤ピン位置 ↓ 姫百合橋の女学生
(クリックで拡大表示)

内間(うちま)
停車場(無人):大正12年開設、浦添市
安里からの築堤はやがて切り通しとなり、安謝川を渡ると一面の畑と野原の駅、ここから首里城がよく見えたという
開通当初は停留場だったが、後に寿屋のアルコール工場への、側線/引込線を設置し停車場になった

ゆいレール古島駅の先から、↑ 旧米軍のパイプライン通りが線路跡となる

↑ 上り方向の線路跡道路 ↓下り方向

城間(ぐすくま)
停留場(有人):大正12年開設、浦添市
駅長と駅員2名が常駐し、通票の交換駅であった

↑ 58号線の左に広大な米軍基地がある、Google航空写真の撮影時雲がかかっていたらしい

↑ 上り方向の線路跡、↓ 下り方向で58号線に合流、左前方が米軍基地

牧港(まちなと)
停車場(無人):昭和12年新設、浦添市
開通当初は集落近辺に駅を作ることに反対したが、後に価値を認め地元請願で新設された
側線付きの停車場だが、駅員は常駐していなかった

上方の58号線から南に弓状に分かれ、次の大謝名まで線路敷が道路として残っている
 
↑ 上り方面の線路敷跡道路 ↓ 下り方向の線路跡後道路
 
大謝名(おおじゃな)
停留場(無人):昭和12年新設、宜野湾市
当初の城間〜真志喜間に、地元が土地を提供し新設された請願駅

↑ 左下から右上にクッキリと、線路跡が道路として残っている
 
↑ 上り方向の線路跡道路 ↓ 下り方向の線路跡道路
 
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