軽便の本線(3線共用:那覇〜国場)
表紙地図ページ            与那原線   嘉手納線   糸満線
  
*お断り:このコンテンツは只今工事中です
 軽便は最初に開通した与那原線の、途中駅から嘉手納線と糸満線が分岐した。古波蔵は当初の与那原線にはなかったが、嘉手納線の分岐に伴い新設された。さらに糸満線は国場から分岐し、那覇〜国場間を共用していることから、「本線」と呼ぶことにした。
 また、桟橋荷扱所は那覇駅からの引込線であったが、後に貨物専用の海陸連絡線となった。当初は引込線と呼ばれたとおり、わずか480mの短い線路ではある。

 この本線と与那原線、嘉手納線、糸満線を紹介する "View" ページは、ほとんど当時の写真が残っておらず、大半は現在の地図をGoogle Map と、ストリートビューで構成している。各駅の場所や紹介文は、軽便研究の先人諸氏が残した、書籍と資料から引用していることをお断りしておく。
Google Map 上に赤い(押)ピンで、駅跡と推定される場所を示したが小さく見づらいので、クリックして拡大して御覧になることをお勧めする 

桟橋荷扱所

左下の埠頭が桟橋荷扱所、右下の三角地帯が那覇停車場
↓ 桟橋線は貨物専用線だが、20周年記念かで客車が入線している

那覇停車場

那覇停車場は南前に与那国街道、その南に国場川があったが、現在は埋め立てられ駅跡はバスターミナルになっている

↑ 駅舎正面あたり、↓ 構内の左上隅に「仲島の大石」が今も残っている

古波蔵(こはぐら)
停車場(有人):大正11年開設
駅周辺にはキビ畑が広がり、駅の北側には嘉手納や高嶺の製糖工場から運ばれ、糖蜜を加工するアルコール工場があった

左上が那覇方面、真ん中下が下り方向、右方向に嘉手納線が分岐していた

↑ 左が上り那覇方向、赤瓦民家 あたりに駅があったと思われる
↓ 左(北)に嘉手納線が分岐、本線は進行方向が下り方向

 真玉橋(まだんばし)
停留所(無人):大正4年増設
開設当初は橋より離れた西側で、昭和9年に東へ400m移設して、対岸の真玉橋部落に近くなった

昭和19年の10/10空襲で破壊されたが、3連アーチの見事な橋がかかっていた
↓ 橋の北詰めに当時の遺構が、記念碑として残されている

↑ 左の直線が下り方向、駅の跡はこの右側あたりと思われる →

 国場(こくば)
停車場(有人):大正3年開設
駅の周りは畑で集落は北方にあって、戦時中は那覇から芋を買う人々が利用した

赤いピンあたりが駅跡で、右下方向に延びる路地が当時の線路敷

↑ 上り方向、↓ JAの裏(南)に当時の線路跡が路地として残っている

この駅で糸満線が分岐していた