軽便のあらすじ
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 沖縄県営鉄道(軽便):大正3年〜昭和20年 那覇〜与那原(T3年開業)・嘉手納(T11年)・糸満(T12年) 軌間:762mm
 
  沖縄県(営)鉄道は国が地方の鉄道網を促進するため、規制を緩めた軽便鉄道法に基づき建設された。そのため沖縄の人々は「ケービン」と呼び親しまれた。なお、現在にいたるまで「県営」でなく『県鉄道』としている。
 明治維新につぐ廃藩置県後に、国営鉄道と接続される軽便鉄道が、全国各地に続々と建設される中、沖縄県でも明治40年頃から民間による建設計画が相次いだ。しかし、建設資金難などにより挫折し、県営による敷設計画が大正2年に可決された。

 当初、那覇桟橋〜与那原間の建設が、同年12月より着工され翌年12月に開業した。同年に開業の路面電車や、馬車鉄道に数ヶ月遅れとはいえ、沖縄に3つの鉄路が揃って開業したことになる。与那原線の開業時は那覇〜国場〜南風原〜与那原の4駅と、貨物専用の那覇桟橋引き込み線であった。車両は独ヘンシェル製蒸気機関車3両と、国産の客車7両、貨車9両であった。大正10年に後の昭和天皇(皇太子)が、欧州視察の途次与那原に寄港され、那覇までお召し列車が運転された。那覇から首里までは路面電車の予定を、人力車に変更されたという。

 引き続き着工されるはずであった、糸満線は資金難から保留され、費用対効果に優れた嘉手納線が、大正9年に着工され11年に営業を開始した。路線は那覇〜国場間に古波蔵駅を新設し分岐、与儀〜内間〜城間〜大謝名〜大山〜北谷〜桑江〜平安山〜野国〜嘉手納が開設され、沿線の数駅には製糖工場などへの側線、引き込み線も設置された。車両の独エイボンサイド製蒸気機関車4両を含む58両は、本土の仙北軽便鉄道の払い下げであった。

 大正11年に保留されていた糸満線が、着工され翌11年営業を開始した。路線は与那原線を国場まで共用し、分岐した後は津嘉山〜山川〜喜屋武〜稲嶺〜東風平〜世名城〜高嶺〜兼城〜糸満。車両は英コッペル製の、蒸気機関車3両を含む11両が投入された。なお、当初の路線は山川〜東風平を、最短距離で結ぶ計画であったが、県会議員の介入により喜屋武経由と、大きくカーブを描き迂回させられたという。これを称して議員の名をとって「幸之一カーブ」という。

 輸送量は当初こそ年間100万人レベルの、路面電車に遅れをとっていたが、年々増加し昭和元年には100万人を超え、昭和13年以降は200〜300万人を輸送した。また、貨物も50万トン以上を輸送し、沖縄県の1大物流機関として貢献した。なお、利用客数は那覇を筆頭に与那原、安里、嘉手納、東風平。糸満がベスト6であり、とくに安里は学生の乗降で賑わったという。そして、沖縄の経済発展をささせた軽便は、戦局の悪化を受け昭和19年、営業を終了し軍用に占有されたが、米軍の10/10空襲から20年の上陸戦で、路線や駅舎施設が完全に破壊され、戦後の復活もなされなかった。
 
 本コンテンツは下記の先人諸氏の出版物を、引用/転載させていただききました;

 ・近代沖縄の鉄道と海運:金城功氏
 ・なつかしのケービン汽車道を歩く:金城功氏
 ・図説 オキナワの鉄道:加田芳英氏
 ・沖縄の軽便鉄道:絵・松崎洋作氏/文・船越義彰氏
 ・歩いてみよう! 沖縄軽便鉄道マップ:おきなわ散策はんじゃ会殿

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