●年表 ■表紙 歌劇 交響曲
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ケッヘル順
K8(ケッヘル番号第8版):1983年のK6後、K7-K8(1983年)と改定されたが、新番号は付与されずK6のままである
K8欄の"*"はK3/6から作曲年が改定されたか、新規に発見され追加されたもの、"-"はK8で削除された曲である
また、K8以降に確定された曲をも含められているが、作曲年代が大きく変動している曲が多い(2011/12/14)
(お断り:下記の年表に記載されている曲は、K6順でありK8(以降)の改定を反映していません)
1756 | 年齢 0 |
1月27日午前8時生誕 | (音楽界/世界の出来事) |
洗礼名:ヨハネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツアルト | 宝暦6年(江戸中期) | ||
父レオポルトの「ヴァイオリン教程」出版 | |||
1757 | 1 | レオポルト、ザルツブルグ宮廷室内作曲家の称号を受ける | スカルラッティ没 |
1758 | 2 | レオポルト、ザルツブルグ宮廷室内楽団次席ヴィオリン奏者となる | |
1759 | 3 | レオポルト「ナンネルの楽譜帳」を作る | ヘンデル没 |
ヴォルフガング、姉の練習を聴き3度の和音をつける | ハイドン第1交響曲 | ||
1760 | 4 | ヴォルフガング、クラヴィアのレッスンはじめる | ケルビーニ生誕 |
1761 | 5 | 1〜2月、最初の作曲(K61a/1b)はじまる | 産業革命始まる |
1762 | 6 | 1〜2月、ミュンヘン演奏旅行 | |
9月〜ウィーン演奏旅行 | |||
1763 | 7 | 1月帰郷、2月レオポルト宮廷楽団副楽長就任 | |
6月ドイツ、ベルギーを経ヘて11月パリ到着、ドイツでマンハイム楽派に触れる | |||
1764 | 8 | ヴァイオリン(伴奏つきクラヴィア)ソナタ出版(K6/7/8/9) | |
4月イギリス、クリスティアン・バッハを知る | ラモー没 | ||
1765 | 9 | ヴァイオリン(伴奏つきクラヴィア)ソナタ出版(K10-15)、最初の交響曲(K16)作曲 | 蒸気機関車開発 |
8月オランダ、ナンネルとヴォルフガング病に伏す、年末回復 | |||
1766 | 10 | 1月アムステルダム | ハイドン、宮廷楽団長就任 |
3月「ガリマティアス・ムジクム」作曲 | |||
6〜7月パリ再訪、11月帰郷 | |||
1767 | 11 | オラトリオ「第一戒律の責務」作曲 | テレマン没 |
9月〜ウィーン再訪 | |||
10月ヴォルフガング、ナンネル相次いで天然痘罹病 | |||
1768 | 12 | ウィーン滞在、孤児院ミサ作曲 | |
1769 | 13 | 1月帰郷、2月レオポルト宮廷楽団副楽長就任 | ナポレオン生誕 |
11月無給のコンサートマスター就任 | |||
12月イタリア演奏旅行へ | |||
1770 | 14 | 1月ベローナで最初の演奏会後ミラノへ | ベートーベン生誕 |
ローディーで最初の弦楽四重奏曲を作曲、3月フレンツェ | |||
4月ローマ、5月ナポリ、6月ローマ、7月ボローニャ | |||
10月ミラノ、「ポントの王ミトリダーテ」初演 | |||
1771 | 15 | 3月帰郷 | |
8月ミラノ再訪、11月「アルバのアスカーニヨ」初演、帰郷 | |||
1772 | 16 | 3月コロレド大司教就任 | ハイドン「告別」初演 |
8月有給のコンサートマスターとなる | ヘンデル「メサイア」初演 | ||
11月ミラノ、「ルチオ・シラ」初演 | |||
1773 | 17 | 1月帰郷 | |
3月ウィーン、マリア・テレージャ拝謁 | |||
12月「小ト短調交響曲」、最初の「クラヴィア協奏曲」作曲 | |||
1774 | 18 | 12月ミュンヘン | 若きヴェルテルの悩み刊 |
1775 | 19 | 1月ミュンヘン、「偽りの女庭師」初演、3月帰郷 | |
4月最初のヴァイオリン協奏曲作曲 | |||
1776 | 20 | 7月「ハフナー・セレナード」初演 | アメリカ合衆国独立宣言 |
宮廷音楽家として多くのディヴェルティメントを作曲 | |||
1777 | 21 | 8月辞職願却下されるが旅行許可を得、ミュンヘンへ | |
9月アウクスブルグ、10月マンハイム、ことごとく就職活動に失敗 | |||
1778 | 22 | 4月パリ、「フルートとハープのための協奏曲」作曲 | |
6月「パリ交響曲」初演に成功 | |||
7月パリにて母アンナ・マリア客死 | |||
1779 | 23 | 1月帰郷、宮廷オルガニストとして復職 | |
3月「戴冠式ミサ」完成 | 女帝アンナ・テレジア没 | ||
1780 | 24 | 5月アウグスブルグ、ドイツ語版「偽りの女庭師」上演 | |
11月ミュンヘンへ | |||
1781 | 25 | 1月ミュンヘン、「イドメネオ」初演 | |
3月大司教命令でウィーンへ。4月ザルツブルグ帰郷を命じられる | |||
5月大司教と決裂し辞職、ウィーン定住 | |||
1782 | 26 | 7月「後宮からの誘拐」初演に「成功 | クリスチャン・バッハ没 |
8月コンスタンツェ・ウェーバーと結婚 | パガニーニ生誕 | ||
12月ハイドン・セット第1番完成 | |||
1783 | 27 | 6月長男誕生、8月死亡 | 浅間山大噴火 |
10月「ハ短調ミサ」初演 | |||
11月リンツ、「リンツ交響曲」初演、12月ウィーン帰着 | |||
1784 | 28 | 1〜3月予約演奏会で毎回新作のクラヴィア協奏曲を演奏 | |
8月姉ナンネル結婚、9月次男誕生 | |||
11月ザルツブルグ、「後宮からの誘拐」上演に成功 | |||
12月フリーメイソンに入会 | |||
1785 | 29 | 1月自宅にハイドンを招き「ハイドン・セット」の最初の3曲を演奏 | |
2月再びハイドンを招き、「ハイドン・セット」の残る3曲を披露 | |||
6月リート「すみれ」作曲 | |||
1786 | 30 | 2月「劇場支配人」初演 | |
5月「フィガロの結婚」初演し大成功 | ウェーバー生誕 | ||
1787 | 31 | 1月プラハ、「プラハ交響曲」初演 | アメリカ憲法制定 |
5月父レオポルト死去 | |||
8月「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」完成 | |||
10月プラハ、「ドン・ジョヴァンニ」初演し大成功 | |||
12月グルック死去で皇王室宮廷作曲家となる | |||
1788 | 32 | 6月「交響曲第39番プラハ」完成 | エマヌエル・バッハ没 |
7月「交響曲第40番ト短調交響曲」完成 | フランス大革命 | ||
8月「交響曲第41番ジュピター交響曲」完成 | |||
1789 | 33 | 4月プラハ〜ドレスデン、ライプツィッヒ、ゲバントハウスで演奏会 | |
5月ベルリン〜プラハ、6月ウィーン帰着 | |||
9月「クラリネット五重奏曲」作曲 | |||
1790 | 34 | 1月「コシ・ファン・トゥッテ」初演 | |
9月フランクフルト | |||
10月マンハイムで「フィガロの結婚」初演、11月ウィーン帰着 | 12月ハイドン渡英 | ||
1791 | 35 | 3月「ピアノ協奏曲(K595)」最後の演奏会 | ハイドン驚愕作曲 |
6月「アヴェ・ヴェルム・コルプス」作曲 | |||
9月プラハ、「皇帝ティトの慈悲」初演、ウィーン帰着 | |||
9月「魔笛」初演 | |||
10月「クラリネット協奏曲」完成 | |||
11月病床に臥しながら「レクイエム」作曲 | |||
12月5日、レクイエム未完のまま永眠 | 寛政3年 | ||
1795 | コンスタンツェ「ティト」上演、幕間にベートーベンがピアノ協奏曲(K66) を弾く | ||
1799 | ベートーベン「交響曲第1番」 | ||
1804 | ベートーベン「交響曲第3番英雄」 | ||
1806 | ベートーベン「交響曲第5番運命」 | ||
1809 | ハイドン没、レクイエムで葬儀 | ||
1824 | ベートーベン「交響曲第9番合唱」 | ||
1829 | 姉ナンネル死去 | ||
1841 | モーツアルテゥム設立 | ||
1842 | コンスタンツェ死去 | ||
1862 | ケッヘル第1版刊行 |