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琉球絵巻「江戸上りと御座楽」
 
 江戸上り(えどのぼり)とは、徳川幕府への冊封即位を報告し謝恩する謝恩使と、幕府の将軍即位を祝う慶賀使があった。江戸上りは、薩摩の琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。
 6月ごろ季節風に乗り琉球を出発し薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜け大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り、江戸に着くのは11月ごろである。
 1〜2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る、ほぼ一年掛かりの旅であった。
 その道中は「異国を支配する薩摩藩」、および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことで、両者の権威高揚に利用された。
 
 江戸上りの使節には、琉球音楽を演奏する要員も含まれており、道中行列での路地楽や、将軍や幕閣の前でも披露される、御座楽を演じた。 楽師1人、楽童子5人によって、楽(器楽のみ)や唱曲が演奏された。その後、楽器や楽曲も増え、例式も固定し江戸上りや冊封使の歓待の際には、宮廷音楽の重要な位置をしめた。

  御座楽は中国との進貢貿易を通して、伝来した明・清楽系の音楽で、1534年に来琉した冊封正使陳侃の『琉球使録』によると、鼓や銅鑼、笙や笛などの打楽器や吹奏楽器、瑟(しつ)、簧(こう)などの弦楽器を使った中国系の音楽が、江戸上り以前からすでに演奏されていたことがうかがえる。しかし廃藩以後は演奏されることもなくなり、特に「御座楽」は伝承が途絶え、“幻の宮廷音楽”となっていた。
 沖縄県では首里城復元を契機に、「御座楽」の調べを甦らせようと、平成5年度から復元事業をスタートさせ、「御座楽復元研究会」を発足させた。資料などの文献収集や、中国での現地調査を実施し、歴史的文化遺産としての御座楽の復元をした。
 具体的には、現地調査の結果をもとに、楽器18種28点、楽童子衣装6着、楽曲7曲を復元し、平成13年1月県立郷土劇場において「御座楽復元演奏会」を開催した。

 一幅の絵巻からはじまった近世琉球の文化を復元プロジェクト、沖縄のルーツを辿りめぐり、160年もの時空を超えいま再現された。 江戸上りの復元がドキュメンタリーリー映画になり、2011/7那覇市の桜坂劇場で公開された。映画の後のイベントとして、御座楽復元演奏研究会による実演奏を、許可を得て撮影した画像をお見せする。

復元プロジェクトの主導者、比嘉女史のきっかけは、尾張徳川家の楽器と絵巻であったという。それらは彼女より30余年以上前に、 作曲家金井喜久子が、復元を提示していた。日本初の女性交響楽作曲者、そして沖縄音楽の母といわれる、金井喜久子(1906〜1986)が、自伝(琉球新報:1978年連載)上で、御座楽に言及している。

 「6,7年前だったろうか、名古屋の徳川美術館で沖縄展が開催された。江戸上りの際に首里城から伺候した楽人たちが、寄贈したといわれる多くの楽器が展示されていた。 その楽器の多彩さに驚かされた。形といい、色といい実に美しく、優美さこの上もない。それを抱いて打ち鳴らした昔の人々を彷彿とさせてくれた。
それは現在のオーケストラのように、木管、金管、打楽器、弦楽の4つのパートに分かれ、演奏している絵巻まで残されていたので、当時の音楽構成、合奏形式まで想像できた。 これだけの楽器を使いこなし、合奏していた人たちを祖先に持ったことを誇りに感じた。どうしてこうも素晴らしい楽器をふり捨てて三線だけが残ったのか、これらの楽器を復元することによって、 沖縄音楽が太発展するのではなだろうか。」

 新聞に連載したのが1978年で、本文中で6,7年前というから、約40年も前に楽器と絵巻を見ていたことになる、




                新年の宴

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