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金井喜久子の業績 
 
   今夏(2011年)沖縄県立図書館、郷土資料コーナーで三線の工工四譜を読み漁ったが、合乙老四…で書かれた三線伴奏は、比較的シンプルで簡単にドレミ五線譜に置き換えられた。
 しかし、音声譜は合乙老に加えられた、歌唱記号がどうしても理解できず、メロディーが頭に浮かんでこない。

 ある日、左の五線譜曲集を見つけた。金井喜久子著、音楽之友社昭和29年(1954年) 刊行。金井さんが数年余にわたって、五線譜に採譜した琉球民謡が、全部で78曲収録され、併せて詳細な解説と年表が記されている。この書は永く絶版となり幻の名著らしく、寄贈者の書き込みや傍線が多々あった。これにて工工四の勉強を断念し、金井採譜によって西洋音楽ベースで、琉球音楽を楽しむことにした。
 1906年宮古島市で生まれ、8歳の時に琴を、10歳の時に琵琶を学んだ。県立第一高女在学中の13歳のときにヴァイオリンを学び、1927年日本音楽学校声楽入学。卒業後さらに1933年に東京音楽学校(現東京芸大)の作曲科に女性として初めて入学。下総皖一および呉泰次郎に師事した。1936年に卒業後、研究科に進み1938年に修了した。

 卒業後は引き続き呉泰次郎に和声学を、尾高尚忠に管弦楽法を、平尾貴四男に対位法などを学んだ。1940年には日本女性としては初の交響曲第1番を3楽章まで作曲、演奏したが、終楽章はピアノスケッチのみで終わり(2005年に高良仁美が初めて録音・リリースした)、以後演奏されることはなかった(3楽章までの録音は近年発見され、キングレコードから歌曲集と共にリリースされた)。

 1944年には尾高尚忠の指揮、東京交響楽団によって第1回交響作品発表会を開いたほか、1946年、1947年にも第2回、第3回交響作品発表会を開いて自作品を発表した。1950年からは「白檮会」の結成に加わり、作品発表を精力的に行った。

 1956年にはマーロン・ブランド出演の映画『八月十五日の茶屋』の音楽を担当した。1971年には「じんじん」でレコード大賞童謡賞を受賞するなど、数々の作品を発表。沖縄民謡を採譜した「琉球の民謡」を出版し、執筆活動でも功績を残した。1986年に東京で没。

 作風は生地の沖縄の伝統音楽に基づいた風趣を前面にしたものであり、「民族的」な香りの強い作風である。
  (Wikipediayori抜粋、画像はAmazonより転載)

 
     
 金井の旧姓は川平(かびら)といい、宮古島の旧家で名家である。川平家はかって琉球王朝の流れをくむ家系でる。本コンテンツは欽定工工四によっているが、それは川平家も関わっている。明治4年、廃藩置県により王朝が崩壊したが、宮廷音楽の継承を危惧した、琉球王朝最後の尚泰王の命により、野村(親雲上:ぺーちん)安趙が工工四を編纂した。故にこの野村工工四を欽定(官選)と呼ばれるようになった。  野村安趙は琉歌奉行である川平親雲上朝彬に支援を求めた。その時に川平がまとめた資料が、「琉歌節内粒寄(琉歌集)」として現存する。川平はその後に先島諸島の民謡も調査/採録したが、その折か後に宮古島に住み着いたと思われる。三線Midi曲集の節紹介を図書館で調べたが、川平朝申の著作「沖縄の歌と踊り」を参照した。朝申は朝彬の孫であり琉歌集の原本を所持している。  川平朝申は戦後に沖縄民政府文化部副部長/芸術課長を経て、進駐軍の支援で沖縄初の放送局を作り、戦後初の放送を弟の朝清をアナウンサーとして電波を流した。朝清はタレントの川平兄弟の父である。金井の兄も名前に「朝」を抱き、琉球王朝の流れを汲む、芸能奉行職家系の名門の一員であることは、彼女の進路や業績に無縁ではなかろう。
     
     
歴史と背景   三線と工工四   三線Midi曲集  


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