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 平成24(2012)年1月2日、沖縄に移住して初めての正月、首里城の「新春の宴」に行ってきました。 この催しは琉球王朝の正月儀式、「朝拝御規式」を3部構成で再現されましたが、第1部を見逃したのでパンフレットの写真を流用しました。 また、解説文の全てはパンフレットから転載しました。
♪華やかに蘇る琉球王国の初春
 首里城の創建は14世紀頃といわれている。その後、1406年に尚巴志が琉球国支配のための居城として以来、1879年に最後の国王となった尚泰が、明治政府に首里城を明け渡すまで、 約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として君臨してきた。
 その栄華を誇る琉球王朝時代、首里城で執り行われた元旦の儀式が「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」。 王朝の新年を寿ほぐ儀式に相応しく、国王をはじめ王子、按司衆をはじめ、三司官や諸位諸官が、正殿前の御庭で数10列に並ぶ、中国風の厳粛で壮大な儀式だった。
 琉球王国では諸儀式を、国王自から執り行なうことにより、王国の安泰を祈願し臣民に示した。その中で最大の儀式が毎年元旦に執り行なわれた「朝拝御規式」であったという。
 
第1部
子之方御拝
にぬふぁうぬふぇ
♪御開門(うけーじょー)
 8:30正殿前の御庭に通じる奉神門を開く。スタッフらが往時の門番に扮し、ドラを叩き「ウケージョー」と発声し、門が開かれる。

♪御座楽(うざがく)
 奉神門の御開門と同時に、正殿の基壇上に居並ぶ「御座楽」楽士らが、中国風の雅やかな御座楽を奏で、来客を厳かに迎えいれる。

♪朝拝御規式
 王城ならではの特色のある正月飾りが施された御庭において、琉球王朝の朝賀の儀が厳粛にはじまる。
♪神への感謝、新年を寿き、平穏を祈念する

 第1部の「子之方御拝」は、神への拜みの儀式であり、国王をはじめ王族、王朝の高官である摂政・三司官から、諸役はもとより庶民の代表である、 各間切のウッチサバクイまでが参列する、国を挙げての儀式だった。厳粛なうちにも上下が心を一つにして、新年を寿き平和・平穏を祈願する。
 正殿(西向き)右手の北殿に設けられた祭壇に面して、2名の三司官と久米36姓の長史(ちゃぐし:式典指揮者)が並ぶ。次列には王族と按司、親方、その後ろに諸役らが並ぶ。
 御座楽の奏鳴とともに正殿から国王と王妃(往時は国王のみ)が出御し最前列に位置する。
 祭壇に向かって拝礼が行われ、全員でワンスイ(万歳)と唱和する。
       
【参考サイト】 琉球の位階 三司官 久米村三十六姓
 
第2部
朝之御拝
ちょうぬうふぇ
♪国王の聖寿を祝い、忠誠を誓うとともに、王国の繁栄を祈る
 第2部の「朝之御拝」は、年頭に当たり諸臣が王国の聖寿を祝い、琉球王国の繁栄を祈る儀式。 摂政や三司官はもとより、庶民の代表である各間切(村)のウッチサバクイ(村長)までが参列した。 儀式に参列するすべてのものは国王への忠誠を誓い、琉球王国の栄華を心から祈念し、粛々と儀式が執り行われた。

 第1部の北殿(北向)でなく主殿(西向き)前に、諸臣が座して居並ぶ。 先頭の列には中央の浮道(東西通路)を挟んで、2人の三司官が並ぶ。 北側の三司官の外側に久米長史が位置し、儀式の進行を司る。 その両側に王族の按司と2人の親方が並ぶ。2列目には親雲上、里之子などの上級士族、 3列目以下には築登之などの一般士族が並ぶ。

 御座楽隊のドラを合図に、正殿唐破風下の2階窓が開き、国王と王妃が臣下を謁見する。御庭に居並ぶ諸臣は深く礼をし、国王の聖寿を祝い国家の繁栄を祈る。
 
第3部
大通り
おおとーり
♪国王への感謝と、国王と王子、王孫の繁栄を祈る

 第3部の儀式「大通り」は、国王をはじめ諸臣が順々にお祝いの酒、泡盛の盃を廻し飲みした。 国王が朝賀に出席し諸臣が祝福してくれたことに感謝するるとともに、 国王と王子、王孫の繁栄を祈る儀式。
 王朝往時の「泡盛」は貴重なお酒で、朝拝御式のように特別な儀式の時にしか、口にすることができなかったという。

 第2部の「朝之御拝」と同じように、正殿前の御庭に諸臣が居並ぶ。国王と王妃は1階の御差床で、若衆の捧げ持つ酒を酒器に受け一献する。
 国王が御庭の諸臣へ振る舞うよう手を振り、若衆が国王から賜った祝い酒を、御庭に居並ぶ諸臣に順に酌をして回る。若衆は十代の士族少年で、 髪も衣裳も女性のように美しく装い、城に出仕し小姓を務めた。
甘酒のお振舞い 琉球芸能の宴



            

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【追記】 「朝拝」について (新琉球史より転載)
 朝拝とは元旦(小正月、冬至にも)の朝賀の儀式で、「朝之御美拝(チュウヌウニフェー)と呼ばれ、大御庭(正殿、北殿、南殿、奉神門に囲まれた内庭)で行われた。 1713(尚敬1)年の資料では、大きく二つに分かれている。

 第一は国王が御庭の吉方に向かって諸官とともに拝む。式は中華之礼法で久米村の長史が仕切り唱える祝文は風調雨順、国泰明安であった。 服装は国王が明朝之御装束で、三司官や親方などの赤、座敷・当クラスは黒の唐束帯で、久米村の諸役は明朝之冠服であった。 17世紀中頃の清朝時代から、国王以外は琉球の朝廷衣、琉冠服に改められたという。
  朝拝は第二の国王への御拝に移る。国王を百浦添真正面(唐破風)之御椅子に迎え、正殿前に香炉を飾り、王妃の焼香のあと三司官、諸官が焼香した。 その後に久米村の長史によって国王への感謝の祝文を唱和した。かっては王子等は拝まなかったが、羽地朝秀(向象賢)以降は拝むようになったらしい。 この一連の朝拝に王朝諸官のみでなく、間切役人らも参加した。

 間切の夫地頭(ウッチ?)・捌理(サバクリ?)・おえか(?)の役人から、黄冠・赤冠・青冠の三名が選ばれ、登城して朝拝に参加した。 引き続き行われた大通りでは、有位の役人は正殿前で、無位のさばくり・おえか人はお庭でお酒を賜った。