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沖縄・那覇名所巡り

 崇元寺(そうげんじ)は琉球の歴代国王を祀る国廟であったが、先の大戦の戦火で消失し、石門だけが再現されている。 琉球石灰岩の三連アーチ門は、国指定の重要文化財、消失した正廟などの建物は国宝であった。

 創建は1827年で第二尚氏の初代円王(金丸)で、第一尚氏の国廟であった慈円寺を、首里城近くから移設改築した。 第一尚氏の重臣であった金丸は、クーデターにより王位を継承し尚氏を名乗ったが、後ろめたさがあっての移築かも知れない。

 琉球の明への朝貢により冊封使が来冲し、首里城で琉球王として冊封する前に、必ず立ち寄り参拝するという格式で、石門前の下馬碑に通行者はすべて下馬すべしとある。

 中央の三連アーチは洪門、その左右に小さめの掖門があり、琉球では珍しく門の上に瓦屋根や建造物がない。


  大正〜昭和のはじめ、門前を路面電車が走っていた


 世界遺産に登録されている首里城や識名園は、建造物の
一部が再建さてているが、他の指定グスクとも全てが遺跡と
しての登録となっている。崇元寺は建造物の再建計画がな
く、本廟跡芝生公園になっているが利用者の姿はすくない。

古絵図の左下に下馬碑が書きこまれている→


↑ 見難いが下馬碑 と、説明板 →

↓ 葛飾北斎が来沖せずに描いた長虹堤


↓新旧の崇元寺橋↑

 崇元寺は那覇港と首里城の中間に位置し、冊封使一行は那覇港の浮島にある東村の、天使館から中の海(ナーファ)を船で崇元寺に渡っていた。 王府は双方の人々の往来のため、1400年半ばに長虹堤を築いた。石造の堤と海水や川の水流のために、7つのアーチ橋を設置した。
 北斎の絵では堤の左手前方が浮島、真ん中の大きなアーチ橋は美栄橋、右手前が崇元寺と推測される。崇元寺手前の橋が安里橋(現、崇元寺橋)で、絵とは違い立派な石橋であった。


         


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