三山時代からの中国文明、王国時代の日本仏教などによる、文字文化の流入のより、世俗の言葉の文字化が進んだ。
文字文化の発展により詩歌形式のオモロが発達する。オモロは読む詩ではなく謡う詩であり、王朝では仏教の声明の影響を受け、官製祭式オモロ唱法に発展した。
世俗では各地の祝女(ノロ)の祭祀での、古謡旋律の「節名」とも混じり合い、中国より渡来した三(味)線の改良発達と相まって、琉歌に発展した。
一方、王朝では中国への朝貢・冊封交流による、中国形式の音楽と楽器を用い、1700年すぎの薩摩侵攻に伴う、江戸幕府参内(江戸上り)など、琉球色を誇張した「御座楽」を披露したが、三線の進化に伴い衰退していく。
三線の改良・発達により琉球音芸は王朝の保護を受け、高度化・形式化がなされ、歌三線の名手が輩出する。
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1700年中頃、屋嘉比朝寄により中国楽譜を改良した「工工四」譜が出現した。三線音楽は工工四の流布と改良とともに発展し、後に知念、安富祖、野村と続き現在に至る。 王府保護による古典三線工工四は、整理統合され2〜300曲が残されている。一方、王朝貴族から民間に下流した三線音楽は、伝来の古謡や遊里の歌舞音曲、離島の古謡を取り込み一段と流行した。
そのほとんどが工工四譜化されず口伝伝承されたが、庶民による生活に密着した祭祀や、総踊りのカチャーシやエイサーのリズムをも取り込み、、真に沖縄特有の三線音楽として発展した。 |