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琉球の民謡 
 日本初の女流作曲家、金井喜久子著の同名書籍に触発され、本コンテンツにまとめた
 
  琉球音楽の歴史的背景 
 琉球は1200年代以前の、古代血縁社会である「部落社会」を経て、本土鎌倉初期〜戦国時代頃の琉球は、各地の部落統廃合が進み、群雄割拠の世が「按司時代」で、初期封建社会と位置づけられる。
 1400年代後半に戦国群雄割拠が、3大グスク地方王国に収束し、北山/中山/南山の3山時代のせめぎ合いとなる。やがて中山が本島を統一し(第1)尚氏の、「中央集権後期封建時代」を迎える。
 本土では足利時代の琉球王朝の始まりは、後にクーデターにより第2尚氏王朝が、明治維新までの約400年間を体制維持する。
 
 1700年代のはじめに薩摩藩島津氏の侵攻を受け従属するが、尚氏王朝の中国進貢(貢物)/冊封(琉球王認知)は存続する。徳川藩幕体制下にありながら、日中並行の文化/貿易体制を維持する。
 1879年の維新明治の廃藩置県まで琉球は、日中の狭間で両国の政治文化の影響を受け、独自の文明文化を発展させてきた。
 ●琉球の文学と音楽
  三山時代からの中国文明、王国時代の日本仏教などによる、文字文化の流入のより、世俗の言葉の文字化が進んだ。
 文字文化の発展により詩歌形式のオモロが発達する。オモロは読む詩ではなく謡う詩であり、王朝では仏教の声明の影響を受け、官製祭式オモロ唱法に発展した。
 世俗では各地の祝女(ノロ)の祭祀での、古謡旋律の「節名」とも混じり合い、中国より渡来した三(味)線の改良発達と相まって、琉歌に発展した。
 一方、王朝では中国への朝貢・冊封交流による、中国形式の音楽と楽器を用い、1700年すぎの薩摩侵攻に伴う、江戸幕府参内(江戸上り)など、琉球色を誇張した「御座楽」を披露したが、三線の進化に伴い衰退していく。

 三線の改良・発達により琉球音芸は王朝の保護を受け、高度化・形式化がなされ、歌三線の名手が輩出する。

 1700年中頃、屋嘉比朝寄により中国楽譜を改良した「工工四」譜が出現した。三線音楽は工工四の流布と改良とともに発展し、後に知念、安富祖、野村と続き現在に至る。
 王府保護による古典三線工工四は、整理統合され2〜300曲が残されている。一方、王朝貴族から民間に下流した三線音楽は、伝来の古謡や遊里の歌舞音曲、離島の古謡を取り込み一段と流行した。
 そのほとんどが工工四譜化されず口伝伝承されたが、庶民による生活に密着した祭祀や、総踊りのカチャーシやエイサーのリズムをも取り込み、、真に沖縄特有の三線音楽として発展した。
   

 

 
       
三線と工工四   金井の業績   三線Midi曲集

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