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 那覇市東西14町「壺屋町民会;華鳳会」
那覇大綱挽まつり 旗頭行列出陣記
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 那覇大綱挽は琉球王国時代の那覇四町綱の伝統を引き継ぐ、長い歴史を有する沖縄最大の伝統文化催事。 うふんな(本綱)は全長200m・直径1m56cm・総重量43トン・手綱(挽き綱)総計256本(1本の長さ約7m)を、引き手1万5千人で挽きあう。


西方みーんな(女綱)長さ100m、

東方をぅーな(男綱)長さ100m

(那覇大綱挽保存会リーフレット見開き左ページ

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 地方の綱引きは農村行事として稲作のための雨乞い・五穀豊穣・御願綱を起源とするのに対し、町方(都市)の綱として交易都市那覇を象徴する大綱挽となっている。 那覇は古くは浮島とよばれた一港村だったが、首里王府の交易品を取り扱う御物城や親見世(市場)を設置、中国からの渡来人が住む久米村に加えて、薩摩藩の在番奉行所(御仮屋)などの公館の設置などで次第に発展し、 西村、東村、若狭町村、泉崎村の那覇四町と称される都市に成長した。

 大綱挽は那覇の発展とともに周辺の壺屋などの村々をかしー(加勢)として加え、なーふぁんちゅー(那覇人)の心意気を発揚する行事として成立してきたもので、 沖縄の稲作文化を基礎に、中国、大和の文化を取り入れた沖縄独特の伝統行事だ。みーんな(女綱)・をぅーんな(男綱)をかぬち棒で結合させ、西東に分かれて挽きあう綱は陰と陽の結合を意味し、 人類繁栄を願う神話的行事でもあり、古文書に「綱挽の儀は、国家平穏、海上安全の祈祷として挽き来たれ」とある。

 明治以降はお祝い綱として開催されたが1935年(昭和10年)を最後に途絶えていた。戦後に那覇市は首里・小禄・真和志を合併して大那覇市となったところから、 沖縄の祖国復帰の前年1971年に市制50周年記念事業として「10・10那覇空襲」の日に復活した。以来年々盛況となって1995年ギネスブックによって、「世界一のわら綱」と認定され那覇大綱挽は世界一の綱挽として、 那覇市民・県民の誇りとなり、沖縄の観光振興に大きく貢献している伝統行事として定着している。
(那覇大綱挽保存会リーフレットより)
 
【以下は2015/10/6ブログのあとがき】
 本シリーズではなんとも島くとぅばが多発している。参照している資料には琉球言葉と日本語の漢字とを併記していて、なるほどと理解できるのでおおいに助かっている。 ほとんどのウチナーくとぅばは日本語が語源で、いわば琉球・沖縄訛りの方言とも言える?

 Wikiなどでは南西諸島の諸言語は方言でなく、独自の言語だと書いているが文法も単語も日本語。 異言語というのなら文法が一緒なので、源流はやはり日本語だと思えるが? 九州や東北弁などを聞くと理解不能だが、島くとぅばと同じで単なる方言・訛りと思うが
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