明治維新後、沖縄は文化的後進県と位置づけられ、早急に皇民化することと圧迫された。本土より赴任の教育者に「琉球人に中等以上の境域は不要」とまでいわれ、県知事(本土人)さえも沖縄県人教育不要論を唱える、不毛の沖縄教育界にあって、本土検定唱歌音楽教育を無視し、それでも西洋音楽をベースに沖縄民謡を編み、音楽を通じた情操教育に生涯を費やした、沖縄音楽の父「宮良長包」がいた。

 明治発足間もない沖縄音楽文化の不毛期に、伝統音楽と西洋音楽を融合し、こどもに教えるとともに県民をも啓蒙した、教育者・音楽家がいたことに驚く。
 明治維新・廃藩置県時の最後の琉球国王だった尚泰王は、宮廷三線音楽の衰退を惜しみ、野村安趙らに三線楽譜の編纂を命じた。いわゆる欽定工工四であり、これにより口伝の古典三線曲が、未熟ながら楽譜として残された。しかし、工工四は不備であり三線は弾けても、声楽部はまことにお粗末であった。
 
 その不備を補うため多くの音楽家・学者・研究者が、西洋音楽理論に基づき、五線譜化に挑戦をし続けている。大正から昭和にかけて沖縄の教壇に立ち、音楽を教えた宮良長包もその一人だ。宮良に続いて山内盛彬金井喜久子らも挙げられる。
 いずれにせよ宮良の琉球・沖縄音楽の、洋楽化教育は唯一無二の嚆矢であろう。彼は石垣島で薬店を営んでいた家の息子で、父は王朝典籍師匠の踊奉行という。幼い時から琉球音楽の教育を受け、後に教育者として師範学校において、沖縄音楽をベースに次代の教育者を育成してきた。更には古謡・民謡を研究し、五線譜化を通じて近代沖縄の音楽を世に広めていった。

 彼が「鷲ぬ鳥」などの古典三線曲を研究分析し、単なる洋楽五線紙化だけではなく、本物の美しい西洋音楽として作編曲したことは、紛れも無い沖縄近代音楽の父であろう。


 八重山の祝祭歌筆頭曲の「鷲ぬ鳥節(ばしぬとりぶし)」を、工工四と洋楽との比較分析している。1912(T1)年ごろの研究資料で、採譜し五線譜化するだけでなく、下記のように美しい西洋音楽に仕上げている。

 鷲の鳥節と鳩間節の三線原曲は金井喜久子が採譜し、五線譜化したものをSMF/Midi化した。

 以下の楽譜画像をクリックすると、新窓でSMF/Midiファイルがダウンロードされ、PC内臓のプレイヤーで聴くことができます
鷲ぬ島節(三線曲) 鷲ぬ島
元歌の本歌八重山古謡「鷲のユンタ」旋律による
   
鳩間節(三線曲) 鳩間節変奏曲
   
赤ゆらの花(1922) 嘆きの海(1922)
   
南国の花(1925) 首里古城(1928)
   


ピアノ伴奏付き男声四部合唱で作曲された意欲作


琉球木遣唄(1930)
 首里王朝正殿などを建造・再築する際、本島北部のヤンバル国頭地方から、大木を切り出し首里に運びこむ。大きくて重い材木を大人数で曳き首里城に運びあげる。その過重な作業を達成するため、運搬途中で自然発生的に懸声が湧き上がる。それが曲としてまとまったのが「国頭サバクイ」。

 首里城に運び込まれた大木は、首里三平等(みひら:3町)に加え、那覇4町村(東/西/久米/泊)も加勢し奉仕、鉦や太鼓の音頭で大木を運び上げたという。
なんた浜(1931)
与那国の古謡「ションカネー節」をイメージ
母の声(1932)
晩年の珠玉の名曲
 
 琉球木遣唄でピークを迎えた宮良(47才)は、その後も歌曲を多作し、その多くが琉球民謡をベースとした親しみやすい曲ばかりである。とくに、1930年以降は八重山民謡の洋楽化に集中し、口伝で楽譜(工工四)のない、伝承のユンタなどを意欲的な採譜と、宮良独自の音楽をに昇華させている。猫ユンタ、稲刈歌、唐船ドーイ、そして安里屋ユンタ…

 沖縄の民族音楽を洋楽化し、100余の格調高く美しい歌曲を、世に送り出した宮良長包の生涯は、文字通り沖縄のフォスターであろう。1883年石垣生まれ、1939(S14)年没。
 宮良を賞賛した山田耕筰は、宮良の出版した曲集に、以下の序文を寄せている;

 「郷土の美はその土に生まれた者の手にあってのみ、正しく保存される。郷土の美が失われることは、決して一地方の損失にのみ止どまらない、それはひいてはその国の不幸をもたらすもので、その意味からも郷土音楽に対する真摯な努力に、心から敬意を表します。」