那覇ハーリーは、14世紀に中国から沖縄に帰化した久米三十六姓が伝えたという説等がある。琉球王国の国家的行事として栄えたが、廃藩置県(1879年)で琉球王国がなくなったことにより廃止された。
 その後は地域の行事として一時期復活するも、1928年を最後に競技は途絶えてしまった。本土復帰記念事業として1975年の開催された沖縄海洋博を機会に復活し、その後は沖縄を代表する行事になっている。

 那覇ハーリーと県内外のハーリーとの違いは「舟」にある。那覇以外のハーリー舟は、主に漁労用のサバニを漕ぎ手10名、舵取り1名で操る。那覇の舟は全長14.5メートル、幅2.1メートル、重さは2.5トン、乗組員が42名になる大型のもので、舳(へさき)には竜頭を、艫(とも)には竜尾の彫り物を飾った特別な舟となっている。

 本来ハーリーは旧暦の5月4日に行われるが、那覇では観光客向けに5月の連休に行われている。昔は那覇港河口の漫湖の奥武山島周辺で行われていたが、現在は泊の那覇新港で開催されている。
 往古は役人が首里城に上って国王に端午の節句をお祝いし、その後に乗組員一同は船を出し豊見城御願に祈願した。

【爬龍船
・久米:黄色船体、乗員は唐装。不足の漕者を大嶺の壮者を雇う
・那覇:青色船体、乗員は和装。不足の漕手を垣花の壮者を雇う
・泊  :黒色船体、乗員は琉装。泊港の漕手

【乗員】
・鉦打: 3人、櫂のさばきを鉦で指示する。泊は3人交互打ち、他は3人同時打ち
・唄者: 3人、歌の緩急で旗や櫂の操作やテンポを指示する
・旗持: 3人、漕ぎ方(舟遊び・勝負漕ぎ)により旗の振り方が変わる
・垢取: 1人、船の中央に座し浸水を桶ですくう
・漕者:32人、16人が左右に2列配置、中央に強者を配置する
・梶取: 3人、経験を重ねた熟練者が舵を取る
【漕ぎ方】
・遊び漕ぎ:勝負前の御願漕ぎで、ゆったりとした唄に合わせて、鐘打は1拍ごと、2・4拍目に櫂を高く上げる。鉦に合わせて旗を前後に大きく降る。
 3隻が思い思いに漫湖をゆっくりと巡り漕ぐ。国王貴族士族ら百官は御物グスクに桟敷を設けて観覧したという。

・勝負漕ぎ:いざ勝負の合図で競漕する。唄はなく鉦打ちのテンポが早く、旗は上下に動かす。初回の勝負は奥武山島を一周する。
 最後(アガイ)勝負(スーブ)久茂地川に架かる松田橋から、豊見城の威部前(イビヌメー)で決着がつく。


【爬龍闘争
 最後の勝負で泊が勝とうものなら、久米・那覇連合軍との闘争(ムンドー)がはじまる。久米・那覇は町民が多いが泊は士族の武士が多く、櫂で殴りあう殺し合いに互角に戦い、両軍あわせて4〜5人になるまで戦ったこともあるという?(山内説)

【爬龍船唄】
 (右欄の@〜Dをクリックすると、別窓で曲を聴くことができます)
@那覇遊び漕ぎ

 ♪石なぐの石の大瀬なるまでも
   (囃子)ヨハリ ナファヌフェンサーヨー
   おかけぼさへ召しよれ我御主加那志
       ヨハリ ナファヌフェンサーヨー
A久米祈願下り
 ♪豊見城の按司加那志御水硯賜ちゃる う誇らしゃ
   又ゃ来年の此の時分み拝々まー
   (囃子)ヘーローリーヤーリローン
B久米遊び漕ぎ
 ♪イェーイ!フッチューイチタウハウシュンネン
  サ御水硯賜ちゃる誇らしゃ
  来年ぬ此の時分み拝々まー
  イェーイ!チュイシャンイパスシャイヲ
  サ御水硯賜ちゃる誇らしゃ
C泊遊び漕ぎ一
 ♪石なぐ石の大石なるまでぃん
   おかげぼせ召しょれわ御主加那志
   (囃子)ヨハリ泊ヌフェンサーヨー
D泊遊び漕ぎニ
 ♪この人数そろえて豊見城上り
   出ぢ立ちゅるきわやさびやないさめ
   (囃子)ハーリーツマユィヌフェンサーヤー

那覇ハーリー、安全に 豊見城城址でノロが祈願
(琉球新報:2013年4月30日)

 ハーリー発祥の地とされる豊見城城址公園内の豊見瀬御嶽前で、4月28日「第11回ハーリー由来まつり」(豊見城龍船協会主催)が催された。
 神事「豊見城上り」では豊見城、根差部、嘉数、真玉橋4ヶ字のノロや神人がポーポーやアマガシなどを供え、五穀豊穣と那覇ハーリーの安全を祈願。続いてハーリー歌が披露された。祈願には市民や那覇爬龍船振興会の関係者なども参加した。
本コンテンツは山内盛彬の著作集を参照した