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斎場御嶽久高島逍遥所から久高島を望む
 東御廻いは首里城を中心として東方向の聖地を巡る。沖縄では方角を東(あがり)・西(いり)・北(にし)・南(はえ)といゝ、東方の大里・佐敷・知念・玉城を東四間切(あがりゆまじり)という。 したがって東御廻いというようになった。

 琉球王朝の国王や聞得大君は年に2度、2月に麦の初穂祭と4月に稲の初穂祭にそろって東御廻いをしたそうだ。2月は久高島まで足を伸ばし、4月は玉城グスク方面を廻ったようだ。 なんでも琉球の始祖と言われるアマミキヨが東から渡来したからという。

 国王の東御廻いは健康と経費の浪費だと、摂政羽地朝秀により中止するまで200年ほど続いたらしい。 しかし、聞得大君の御新下りや初穂祭の東御廻いは続き、その後は各門中から神拝人衆も巡拝し、一般化したコース(14聖地)が定着したようだ。
 東御廻いの最大の祭事場所は「斎場御嶽」であり、国王は琉球神話の根源「久高島」逍遥したという。 久高島は琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて、国づくりを始めたという琉球神話聖地の島である。

 また、斎場御嶽は聞得大君の就任神事「御新下り」のコースで知念・玉城のノロらが随伴し、神事は久高ノロが司祭したという。 久高島には年間30余の祭祀があるが、『イザイホー』が最大の祭祀である。

 久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーなど女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えている。

 琉球の祭司は部落の根神として自然発生し、三山統一後に王国の祭祀組織に組み込まれ、聞得大君を頂点として国王の政治を祭祀で補完した。 ノロは間切・村落の祭司として国王から辞令を受けた。

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御殿山(うどんやま)

親川(えーがー)
 6/1の9:30に琉球新報本社前を出発した特別講座バスは、東御廻い出発点の首里城の園比屋御嶽(すぬひゃんうたき)を、 城外の龍潭池畔(中城御殿跡前)で、講師の亀島靖氏の車中解説を受け、いよいよ東御廻いをスタート。

 与那原に着き御殿山(うどんやま)、親川(えーがー)を参拝。国王と聞得大君の2月麦初穂祭で、久高島に参詣する港の出発点。 そのつど浜辺に仮屋が立てられ、聞得大君の就任儀式「御新下り」では、お水撫でが行われたという。
 次いで同じ与那原の場(馬)天御嶽、そして佐敷町の佐敷グスク跡を参拝。馬天は三山を統一し琉球王統を樹立した第一尚氏の、尚巴志の祖父が伊是名島から逃れ、この地に住み着いた場所。

佐敷グスクは三山統一前の尚巴志の居城跡。>巴志が三山を統一し、首里に居城を移した時に城郭の石を、すべて首里城に運んだといわれナニも残っていずグスクらしさがないが、 後に子孫らが500年祭に月代宮を建てたという。

         佐敷グスクへの道から佐敷湾が見える →

 定例の東御廻いコースは与那原から、時計回りに14聖地を廻るのだが、今回の講座バスは道路網の加減で順序が相前後した。 そのほうが本命の斎場御嶽を最後に書きたいので都合が良い順序である
 佐敷グスク跡から玉城村の受水・走川(うんじゅ・はいんじゅ)、浜川御嶽(はまがーうたき)を廻った。どちらもアマミキヨが久高島から上陸し、稲を植えたり仮住まいをしたという神話の場所。


     そして浜川御嶽の横から絶景の浜辺にでた!

東海岸屈指の新原ビーチに続く、久高島から喜屋武岬リーフ内海

 白浜の渚にヤハラヅカサがありアマミキヨが本島に第一歩を印したという地点で、満潮時には海に没する久高島遥拝の石塔がある

 斎場御嶽の後に廻った玉城グスクを先に掲げた。城壁の穴門は冬至と夏至に陽が射すそうだ
斎場御嶽
 『斎場御嶽(せふぁうたき)』。ここはいわば琉球神道の最高御嶽で、本土で言うなれば伊勢神宮のような位置づけ。国王と聞得大君は毎年2回参詣したという。   御嶽には6つの拝所があり、第1の御門口(うじょーぐち)からは男子禁制で、国王のみ女襟に直して入れたという。随伴の男性役人らは御門口横から久高島を遥拝したらしい。

 御門口から上方の石畳坂道をを登ると、大庫裡(うふぐーい)に至る。 最初の拝所で大広間という意味を持っており、前面には磚(せん)の敷かれた祈りの場(ウナー)がある。

 大庫裡から左へ行くと突き当りに寄満(ゆいんち)。 首里城では国王専用の台所で、外国の貴重な食料が寄り集まり、満ち満ちているという豊穣を感謝する拝所。

 寄満から大庫裡に戻りさらに奥に進むと三庫裡に行き当たり、その手前にシキヨダユル/アマダユルがある。 鍾乳石の滴くを受ける壺が二つあり聖水の儀式に使われた。

 巨大な鍾乳石の裏側が三庫裡(さんぐーい)。 鍾乳石が地震で崩れ落ち三角形の空間ができたという。この神秘的な狭い隙間をくぐると拝所がある。


 三角空間を抜けると狭い空間があり、右側がアマミキヨの降霊する拝所で、左側に額縁のような久高島遥拝所がある。 三庫裡の垂直に切り上がったアマミキヨ拝所で、大学生年配の男女が20余人膝を接して正座をし、拝んでいる姿には一種異様な気配を感じた。

 ← ボクが撮った写真では久高島が見えず、Wikipediaの写真を借りた



 定例化した廻り順とは相前後したし、斎場御嶽の後のミントングスクは車内講義、そして前出で触れた玉城グスク廻って帰着した。 この道中を国王や聞得大君は馬や籠で、随伴者や後年の人々は徒歩で廻った。ざっと計測すると約50kmになる。
 久高島のイザイホーは12年に一度の午年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。 これにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。
 
  12年毎のイザイホーが最後に行われたのは1978年で、次の1990年は新たなナンチュ(神女となる女)の不在と、 儀式の祝詞や段取りをもっともよく知る久高ノロの補佐役の逝去のために行われなかった。

 その後の2002年・2014年もナンチュになる女性の不在により中止となった。 最後のイザイホー動画第一部 および第二部をリンクしておく。

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