聞得大君(チフィジン)とは、琉球神道における最高神女(ノロ)。「聞得」は大君の美称辞で「君」は「カミ」の意、従って「大君」は君の最高者という意味である。琉球方言で、チフィウフジンガナシ(聞得大君加那志)と称した。聞得大君は琉球王国最高位の権力者である、国王のおなり神に位置づけられ、国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。
 そのため、主に王族の女性が任命されている。琉球全土のノロ(祝女)の頂点に立つ存在であり命令権限を持った。ただしノロの任命権は国王に一任されていた。また、琉球最高の御嶽である斎場御嶽を掌管し、首里城内にあった十御嶽の儀式を司った。

聞得大君
首里大阿母志礼 儀保大阿母志礼 真壁大阿母志礼
各間切ノロ 各間切ノロ 各間切ノロ
各集落根神・神女 各集落根神・神女 各集落根神・神女

 ノロは古琉球人が農耕生活をはじめたころ、集落の氏神を祭った時に発生したと思われる。地方の祭祀には各集落に祭司のノロがいたが、第二尚氏二世の尚真王による聞得大君制下に再編された。各地のノロは国王の任命によりノロ地を給付され、各々の間切を管掌する阿母しられの下で配下の神女を差配した。

 聞得大君は琉球最大の聖地である斎場御嶽において、就任の儀式である「御新下り」が行われた。「御新下り」の本質は琉球の創造神との契りである、聖婚(神婚)儀礼と考えられている。この聖婚により君手摩神の加護を得て、聞得大君としての霊力を身に宿すのである。
 
 聞得大君が「御新下がり」当日の早朝に多くのノロや女官を従え、御殿から首里城正殿、園比屋武御嶽を参拝する。そこから白馬に乗り行列は華々しく与那原に向かう。道中ではノロたちがクェーナを謡った。

  ♪御新下りクェーナ「みちぐゎいにゃ」

 与那原浜に築かれた仮屋に出揃った、大里南風原ノロと根神・神女たちの出迎えを受ける。ノロや神女たちは事前に斎戒沐浴し、髪を後ろに垂らし白い神衣の精進姿。
 御殿山の拝所でノロにより大君の額に、井戸水のよる3回の御水撫で(ウビーナディー)を受ける。これは一種の洗礼式で身を清め、生まれ変わって新しい生命力を注ぎ込む。
  次いで親川(ウャガー)に移り在所良家の乙女が、井戸水を柄杓で汲んで大君の手を清め口をすすぐ。仮屋の前ではノロや神女がクェーナを謡い舞う。

  ♪御新下りクェーナ「はれいしふーふぇーい」
 与那原の式典が終わる午後3時頃、斎場御嶽に向かって出発する。大里南風原ノロたちがお供をして磯伝いに知念へすすみ、佐敷境で待ち受ける知念玉城ノロ・神女たちの出迎えを受ける。ここまでは先程の「道ぐゎいにゃ」が謡われる。佐敷から斎場御嶽までの行列にも違ったクェーナが高らかに歌われる。

  ♪御新下りクェーナ「みちぐゎいにゃ」

 途中の険しい坂で馬からか籠に乗りかえた大君は、午後9時頃に斎場御嶽に到着する。小憩の後に夜半まで式典が行われる。
 大君就任の一生に一度の、2日1晩の祭礼のため斎場御嶽には、国頭から捌理らが船で材木を運び祝典の仮宿を造り、ハブの棲まない聖なる久高島から白沙を運び、三大拝初を清め大君の安泰と神聖を祈った。
 式典会場は各拝所、仮御殿、仮屋が軒を連ね、大小の傘を30余本も立てられ、ノロ・神女70余名が謡い舞ったという。

 
 夜の10時に式典が開始され、まず久高島久高ノロが白馬に乗り大勢の神女を従えて入場する。玉城ノロたちが出迎え全員が揃ったところで、大君は仮御殿を出て門をくぐり大庫裡」に向かう。
 その道すがらノロたちはクェーナを謡い行進する(式場の移動のつど謡われる)。

  ♪御新下りクェーナ「うちぐゎいにゃ」

1.三殿巡祭
 ・行列が大庫裏に着くとクェーナは止み、大君が神に
  祭祀の御願をする
 ・次いで寄満に向かい、道々クェーナが謡われる
 ・寄満に着くとクェーナを止め、日の神に貢物感謝の
  祈願をする
 ・次に三庫裡に向かい、クェーナの斉唱がなされる
 ・三庫裡で祈願が行われる
  (かっては大君が夜籠りしたという)
 ・大庫裏に戻るときにもクェーナが謡われる
  

2.大庫裡の本儀式
 ・司祭は久高島久高ノロ、進行は玉城ノロ。上座に大君が
  座り左右に久高ノロ以下が円座を組む。神前には聖水・
  神酒・洗米を供えた
 ・式の開始に久高島外間ノロが大君の頭上に王冠を
  載せ、「チフィヂンウドゥンミウシジ」と唱える
  (祈祷がはじまると大里と南風原ノロの音取りで、
  神女たちが総立ちしクェーナを斉唱する)

  ♪御新下りクェーナ「やらしーぐぇーな」

 ・ウタカビ(のりと)唱文、「よなこ浜 よやけ嶽 こむつかの
  みかけこばの つかさおすじがなし…」
 ・神前の聖水をノロが指につけ、大君の額を三度の
  水撫でをする
  清められた大君は霊力の受け入れ態勢ができる
 ・お供えの洗米三粒をノロが大君の頭に載せ、「シマセンコ
  アケシノノロ」と神号を与え神霊(シジ、セジ)づけをする
  これで神命をもって大君に神号を奉り神位を継ぎ、
  神霊が大君の身体に宿って神格を現す


 ・神酒を素焼きの杯に注ぎ神に供え、大君とノロが飲み
  神女も相伴する神酒盛りで誓いを結ぶ
  (午前3時頃に儀式が終わり、一同夜食をとる)
 ・大君は仮御殿に入り金屏風を立て廻し、2枚の筵に2つの
  黄金枕をおいた部屋に休み、神を迎えて神人結婚をおこ
  なう

3.終了掌典
 ・翌朝の日の出を拝し玉城ノロの進行で、久高島久高ノロ
  の掌典でクェーナを斉唱し儀式を終了する

 正午ごろ玉城グスク、受水・走水、ミントングスクを廻り、夜分遅くに首里の聞得大君御殿に帰着する


 以上の「御新下り」詳細と収録したクェーナは、山内盛彬(1890-1986)の著作集を参照した。盛彬は王朝の欽定工工四に、野村安趙らと共に携わった盛熹の孫で、三線と西洋音楽を学び、琉球音楽の西洋楽譜化に寄与した。

 初代の聞得大君はは尚真王の妹である、音智殿茂金(神名、月清)が就任したのが最初である。明治の王国崩壊後もこの役職は存続し明治には安里翁主、大正には尚泰公爵の次女である安室翁主、そして戦時中の1944年に尚典男爵(泰長男)の娘、思戸金翁主が就任したのを最後に戦後に廃職されている。  安室大君が斎場御嶽に御新下りをしたのは、王国崩壊後であり尚家の1行事として、ただ一人で車を使いノロも参集させず1日で済ませたらしい。思戸金大君の就任時は戦争末期の米軍空襲(斎場御嶽に砲弾池がある)もあり、御新下りは行われなかったと推定される。