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say “Jazz is the Blues!”
starring of "Lady Day" & "Satchmo"
 
1947年制作の映画「ニューオーリンズ」はビリー・ホリディと
ルイ・アームストロングが重要な役割を担って出演している。
ビリーは白人実業家のメイド役だが、歌うシーンが多い。
ルイやサイドメンも実名で登場し、プレイするシーンが多い。


ストーリーは初期のジャズの歴史を舞台に、クラブの経営者
と実業家の娘であるソプラノ歌手のラブストーリで他愛ない。
しかしニューオーリンズの紅灯街、ストーリービルの退廃した
雰囲気や、クラブでラグタイムをプレイして収入を得る黒人た
ちを描いていて興味深い。

ストーリービルの閉鎖後に職を失ったミュージシャンたちが、
ミシシッピーを遡りシカゴでジャズを開花させる展開は、史
実通りである。最後は白人のW.ハーマンで面白くない。

↑ タイトルとオープニング、ミシシッピーを下ってきた外輪船
上でのバンド合戦から、ストーリービルのクラブでプレイする
ルイ・アームストロングとそのサイドメンが楽しい。

白人実業家のメイドを演じるビリーホリディが登場する。 →

歌っている曲はブルーズのスタンダードなく、音楽担当者が
作った曲らしく、全編にわたって使われるが、あまりよくない。

この映画が作られたのは1947年なので、ビリーは32歳であ
り、すでに"Lady Day"としてジャズの女王といわれ、油の
乗り切っていた頃である。

← ビリーが女主人の娘のソプラノ歌手にせがまれて、ストー
リービルのクラブに案内する。そこにはルイが雇われてプレ
イしている。折角のルイのプレイとビリーの歌が、安っぽい主
題歌になので面白くない。

だが流石にルイのコルネットが鳴り出すと、平凡な曲でもジャ
ズになってしまう。

ルイのサイドメンたちはこれも実名で、ジャズ史上に名を残す
錚々たるメンバーが揃っている。彼らをルイが自ら紹介する
シーンが ↓ が面白い。また、このシーンのビリーの笑顔は
忘れられないほど、美しく魅力的だ。

   "Original New Orleans Ragtime Band" 
     Zutty Singlton(Dm:1898-1975) - on Hot Five
     Barnny Bigard(Cl:1906-1980)
     Kid Ory(Tb:1886-1973) - on Hot Five
     Bud Scott(Gt:1900?-1949)
     Red Callender(Bs) - on his Orchestra
     Charlie Beal(Pf)


 ズッティ・シングルトンとキッド・オリーは、ルイの最高傑作、
 ジャズ史上に燦然と残る名盤、”Hot Five”のメンバーで、
 レッド・カレンダーもルイの"HisOrchestra"に付合っている。

← クラッシクの指揮者が演奏する曲を聴くルイたちが、ラグの
曲を盗んでいる、”コーンクリブ・ブルーズ”だ! というシーン、
クラッシクからヒントを得た曲が多いのも、フランス文化がベー
スのニューオーリンズならではの話だ。


     Blues vs Score
     楽譜よりもブルーズが一番さ!
紅灯街、ストーリービルの閉鎖は1917年のことだ。   →
アフリカからの奴隷船入港で発展したニューオーリンズは、
人口の7割りも占める黒人奴隷のために、フランス政府は
女囚を送り込み黒人にあてがった。

そして後のアメリカ政府も全米唯一の売春街として、ストー
リービルを承認した。しかし、風紀紊乱著しいと海軍が閉鎖
をしてしまった。すなわちストリービルのクラブなどで生計を
立てていた黒人ミュージシャンたちは職を失ってしまった。

腕に覚えがあるミュージシャンたちは、職を求めて北へと、
ミシシッピーを遡り、メンフィス、カンザスシティ、セントルイス、
そして、シカゴへと大移動を始めた。

ストーリービルの閉鎖でクラブの経営者たちも仕事場を失い、
あるものはシカゴに活路を求め、ニューオーリンズと同じよう
に、賭博場を併設したクラブをオープンさせようとした。

ニューオーリンズと同じくシカゴでも、腕の立つミュージシャン
といえども、音楽だけでは喰っていけず、職人として働いてい
た。

←このペンキ屋も達者なピアノ弾きで、仕事をサボってピアノ
を弾いている。ルイが興味を持って聴くとブルーズさ、シカゴ・
スタイルのという。


北部の大都会では泥臭いニューオーリンズのラグタイムよ
り、新しいスタイルのジャズが誕生しかけていたのだ。白人
の若者たちは楽しく踊れる音楽を求めていたのだ。

ストーリービルの閉鎖に続くローリング・テンティ、大恐慌時
代を抜け出した1930年代、人々は明るくて楽しい音楽を求め
ていたということだろう。

ルイの最大傑作"Hot Five & Hot Seven"もこの頃のプレイ
で、ニューオーリンズの2ビートから、シカゴの4ビートの時代
へと進化し始めた。
         これが有名な”xxxxxxxxx!"の合いの手
 →
 ← "Original New Orleans Jazz Band"
今でこそジャズといい、ニューオーリンズ(ディキシ-ランド)
ジャズ、シカゴ(スイング)・ジャズ、ハーレム(モダーン)・
ジャズなどと新旧のプレイ・スタイルを呼ぶ。

しかし、ニューオーリンズ時代にはジャズという言葉がまだ発
明! されておらず、もっぱらクラブなどでの小編成のバンド
は、ラグタイム・バンドといわれていたのである。

この映画のシーンののように、ジャズという言葉が発明された
のはシカゴ時代である。しかし1917年、最初にジャズをレコー
ディングした白人バンドは、”Original Dexiland Jazz Bannd”で、
これは後日にレーベルを改変したのだろうか?
30年代のシカゴで大成功を収めたルイは、やがて大編成の
His Ochestraや、Allstarsを率い、全米から海外に進出する。
この映画は1947年制作なのでルイは48歳で、先に書いたが
ビリーは32歳だった。


ビリーは1933年12月にハーレムのモネットクラブに職を得、
歌っているときにコロンビアのジョン・ハモンドに発見され、
27日に初めてのレコーディングをしている。

また、その3日前には同じハモンドのプロデュースで、ブルー
ズの女王といわれたビリーの憧れの的、ベッシー・スミスが
最後のレコーディング
している。どちらのセッションのバンドは
ハモンドの友人であった若きベニー・グッドマンだった。

ブルーズの女王とジャズの女王が、同じ年に3日違いで
最後と最初のレコーディングをしたというのは奇縁で、 
この年を境にジャズは新しく発展をしていったのだ。  

 if my heart could only talk
ベッシーもビリーも人種差別に翻弄されながら、人々に
感動を与え成功したが、"言葉ではいい表せない悩み"を
引きずりながら、差別のなせる業で42歳と44歳の若さで
この世を去ったのは惜しまれる。

ビリーの自伝「StrangeFruit(奇妙な果実)は、
別コンテンツとして詳細に記述
していますので、
ぜひともご参照、ご覧いただきたいと思います。
Strange Fruit(YouTube) ← 差別を敢然と訴えるビリーの『奇妙な果実』は絶唱。

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