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"Lady Day" Biilie Holiday

ビリー・ホリディ自伝『奇妙な果実』より
1956 Daubleday, 1971初版/1991第32刷、油井正一/大橋巨泉、晶文社

本文(ボールドの明朝)中のカッコは制作者の加筆、また、本文中のハイフン(-ゴシック)段落も制作者の意訳)
 
 

1917年(2歳)のビリー
1.Some Other Spring (いつの春にか)

  私が3つになったとき、はじめて父とは母正式に結婚した。
 そのときでさえ父は18、母は16という子供のような夫婦であった。
 かくして母が13歳の、1915年4月7日の水曜日に、
 私はこの世に生を享けたのである。


  −と彼女は語っているが後年の調査で、母:セィディ・フェイガンは19歳、
    父:クラレンス・ホリディは17歳と判明している。
    また、セィディとクラレンスは結婚しなかったし、父のクラレンスはわが子、
    エリノアを認知していない。

    クラレンスはジャズ・ギタリストで、夜はナイトクラブでプレイし、昼は街角で流していた。
    地方への巡業にも行くなど、セリディやエリノアに寄りつかず、セィディも収入のため
    家政婦や売春で忙しく、エリノアを実家に預けっぱなしであった。
    エリノアは実家でのDVなどに悩み、トラウマの耐えない苦しく悲しい少女時代を送った。

    エリノアは10歳のとき近所の男に、強姦されたことを語っている。
    帰宅した母の急報で男は有罪になったが、親の保護と養育が不十分と判定され、
    カトリックの感化院に送り込まれた。ここでの虐待や暴力に耐え2年間収容されていた。
    この出生から悲惨な少女時代の第1章は、27ページにわたって語られている。


 (ジャズへのめざめ)

  私は6歳の時から働きに出るようになった。学校の合い間に子守をしたり、
 お使いにいったり、街中の家の玄関を磨いたりした。
 私は働いている間中、必ず歌を歌っていた。私は音楽が好きだった。
 音楽を聴ける機会にはどこへでもいって聴いた。

  近所の淫売屋の経営者や抱え女のためには、ただでお使いに行ったり、
 皿を洗ったり
(淫売部屋へ)石鹸やタオルを運んでやったりした。
 淫売屋のパーラーの蓄音機で、ルイ・アームストロングやベッシー・スミスの
 レコードを聴かせてくれる限り、お金はいらないといつも断った。


 
 当時の蓄音機は大変なぜいたく品で、街中でこの淫売屋にしか
 置いていなかったのだ。私はそこでルイやベッシーに耳を傾けながら、
 素晴らしい時間を過ごした。

  ルイの "West End Blues" がどんなに私を感動させたかを、
 未だにまざまざと思い出す。それは私が言葉でない歌を聞いた最初だった。
 ルイが歌詞を忘れた時に思いついた「ババ、バッバ」というメロディは、
 私には実に多くの意味を持つ歌に聞こえた。
 その意味は私の気分によってまちまちで、 幸福な気持ちになったり、 
 あるときには私をさめざめと泣かせたりした。

 

 
2.Ghost of Yesterdays (過ぎし日のまぼろし)

  1927年(12歳)の夏、母が私が収容されていた修道院から出してくれた日から、
 二人はボルチモアを見限った。
 母はニューヨークへ女中として働きに出かけ、私を呼んでくれることになった。

  母は私にハーレムの141丁目の、しゃれたアパートの一室を見つけてくれた。
 そこはボルチモアでの経験で、どんなことをするところがすぐわかった。
  数日のうちに娼婦になる機会が訪れ、私はその機会を逃さなかった。
 1回の花代は20ドルで、家主のマダムが部屋代として5ドル取ったが、
 その残りの15ドルでさえ女中の月給以上だった。

   −1929年に母とエリノアまでが売春の容疑で逮捕され、留置された記録が
     残っているという。
     エリノアは年を偽り(15歳を18歳と)21歳まで収容される感化院送りを免れたが、
     イーストリバーの刑務所に収容された。


  
(4ヶ月で出所後、再び開業するがトラブルに巻き込まれ)しばらく身を隠すため、
 ロング・アイランドのジャマイカに行き、カジノの持ち主の家に家事を手伝いかたがた
 かくまってもらった。そでは時々近所のエルス・クラブに行って歌った。

 
 
3.Painting the Town Red (底抜け騒ぎ)

 (どん底から歌手デビューへ)

  ママと私はようやくハーレムの139丁目のアパートで、一緒に暮らすようになった。
 ちょうどデフレの頃、ママが病気になりメイドの仕事を止めた。
  貯めていたわずかの金は瞬く間に消え、私は二度と淫売にもメイドにもなるまい
 と決めていた。

  ちょうどこの頃、パパ
(クラーレンス・ホリディ)がギターを弾いてた、
 フレッチャー・ヘンダーソンのバンドが、ダウンタウンのローズランドに出演していて、
 廊下で待ち伏せし付きまとって家賃をせびった。

  ある日とうとうアパートから立ち退きを言い渡された。身を切られるような寒い日で、
 いよいよ明日、路上に放り出されるという晩、私はコートも着ずに外へ出た。
  私は7番街を139丁目から133丁目の方へ、仕事を求めて歩いていった。
 その頃の133丁目はスイング街で、夜明かしのクラブやレストラン、キャフェが
 立ちならび、浮かれ続ける一角だった。

  ポッズ・ジェリーズの店に着いたとき、私は絶望的な気持ちになっていた。
 私は店の扉を押して中に入りボスに、ダンサーだと偽りここで働きたいといった。
 ボスがピアノ弾きのところに連れて行き、私に躍れといった。
 私はボスに怒鳴りつけられるまで、知っている2つのステップをみじめに踊り続け、
 つまみ出されそうになりながら、泣きながら仕事を頼み続けた。

  最後に同情してくれたピアノ弾きが、「ねぇちゃん、おまえ歌えるかい?」
 「もちろん歌えるわ、だけどそれでどうなるというの?」
 私はそれまで暇さえあれば歌ってばかりいたが、それは私にとってだけの
 楽しみでこそあれ、それでお金がもらえるなどとは夢にも思っていなかった。

  私は朝までに45ドルいる。ピアノ弾きに "Trav'lin All Alone" を頼んだ。
 今の私の気持ちにはこの歌がうってつけだった。クラブ中がシーンとなった。
 私が歌い終えたとき客の皆がビールを前に泣いていた。

  その晩、店を出るときチップをピアノ弾きと山分けしたが、それでもまだ57ドルあった。
 私は週給17ドルでポッズ・アンド・ジェリーズに雇われた。


   
−その朝、彼女は母の大好物の食べ物を買い、7番街をまっしぐらにアパートに
     走り帰ると、母に家賃のお金を見せ歌手として雇われたことを報告した。


 
(ビリー・ホリディの誕生)

  
 −エリノア15歳、歌手としてデビューし芸名を決めることになった。
     父が小さい彼女が男の子のようなので、ビルと呼んだことからビリー、そして、
     父親の姓を取って、不世出のジャズ・シンガー『ビリー・ホリディ』が誕生した。

  私の人生のすべてはログ・キャビンではじまったといえる。
 ログ・キャビンは多くのお偉方がやってくる、高級なクラブだった。
 ある日、当時ようやく音楽界で大物になりはじめていた、ジョン・ハモンド
 
(コロンビア・レコードのプロデューサ)がやってきた。

  彼はミルドレッド・ベイリーと
(その夫の)レッド・ノーヴォ、そして、
 若く真面目でハンサムなベニー・グッドマンという青年を連れてきた。
 ラジオのスタジオ・ミュージシャンのベニーは、私にいつか自分のバンドを持ちたい
 といっていた。

  ジョン・ハモンドとベニーは常連だった。そして私の最初のレコードは彼と吹き込む
 ことになった。私はあの日のことを永久に忘れることができない。
 ベニーは私を呼びにきてダウン・タウンのスタジオに連れて行った。
 
  そこで私は当時の旧式の大きなマイクロフォンを見た。それには半分死ぬほどの
 恐怖を感じた。
 私はマイクを無視して "Your Mother's son-in-Low" と、"Riffin' the Scotch" を
 吹き込んだ。
 私はこの吹込みで35ドルをもらったが、このレコードの反響はなかった。


   
−ビリー・ホリディの初レコーディングは1933年11月27日で、
     ベニー・グッドマンをリーダーとする、当時の若手ミュージシャンがバックを勤めている。
     このレコーディングの3日前に、同じジョン・ハモンドの企画で、同じサイドメンにより、
     ブルーズの女王、ベッシー・スミスの最後のレコーディンが吹き込まれた。


 (最初の成功)

  私はログ・キャビンのあとハッチャクラブに出演し、そこで興行界の大物と出会った。
 彼はアポロ劇場の経営者に私を雇うように勧めてくれた。
 彼は「一体その女のスタイルはどんなんだ」と聞かれ、「ブルーズじゃないんだ、
 今までにあんなに遅く、けだるく、物憂げに歌うのを聞いたことがない。」

  私は子供の頃に聴いたベッシー・スミスやルイ・アームストロングを除いて、
 後にも先にも他人から影響を受けたことがない。
 私のスタイルはここに曲があり、それを歌いたくなったら、感じたものを率直に歌えば、
 聴く人は何かを感じるのだ。

  アポロ劇場の初日は18回もトイレに飛び込んだ。
 イントロが始まったときもう一度トイレに行くといったら、ステージに押し出された。
 やっとマイクにたどりついたが、膝ががくがく振るえてとまらなかった。

  2曲目の "My Man" を歌い終わったとき、満場はわれかえる拍手で埋まった。
 彼らは私がどんなスタイルか、どんな経歴か、誰の影響を受けたとかなどを
 問題にしなかった。ただ破れるような喝采を送ってくれるだけだ。

 
 
 4.If My Heart Could Only Talk  (口ではいえない心の悩み)

 奴隷、差別、麻薬

  曾祖母は奴隷だったが夜になると白人の旦那は曾祖母の小屋に忍んできた。
 私は小学校の5年しか終えていない。
  その学校はようやく黒人も通学できるようになったばかりだった。
 ママは学校へは全然行けなかった。

  ハーレム時代に私はママに読み書きを教えた。
 
(その結果)ルイ・アームストロングが書いて寄越した、Red Beens and Licely
 
(ルイの敬具)ではじまる手紙を、大笑いして読み入る姿が嬉しかった。

  
(ハーレムでのデビュー前)私がママと一緒にラファイエット劇場にサッチモ
 
(ルイ・アームストロング)を聴きに行く途中、顔見知りの麻薬売人が声をかけた。
 ママは私を連れて帰り、1年も前からマリファナを吸っていることを白状させた。

 (
ジャムセッション、プレズとの出会い

 
 ベニー・グッドマンがハリー・ジェームスという名の、やせた白人の青年を連れてきた。
 その夜のジャムセッションには黒人の名手、チャーリー・シェヴァース、ベン・ウェブ
 スター、そしてレスター・ヤングなどがいた。

  ハリーはニグロが屑のように扱われているテキサスから来て、黒人に対する
 潜在意識がありありと表れていた。
 私たちはその考えを捨ててもらい、また自分こそ最高のトランペッターと思ってることも。

  バック・クレイトンがすっと立ち上がり、ハリーよりももっとスィートなスタイルで
 吹き出した。
 ハリーはバックの音を数秒聴いただけで深く打たれ、学ぶところが多いこのジャム
 セッションの常連になった。

  私がレスター・ヤングに会ったのも、そうしたジャムセッションであった。
 私はレスターが歌の後ろで、美しいソロを吹いてくれるのをこの上なく好んだ。
 レスターとチュー・ベリーのテナー合戦は、私とサラ・ボーンの時と同じだった。
 レスターは15コーラスも違ったフレーズでソロをし勝った。
 サラがちょうど私の8コーラス目にダウンしたように・・・。

  レスターはママに伯爵夫人と呼び、私達のアパートに同居
(同棲)を求めた。
 私には "Lady Daiy" とよび、私は彼を "プレズ"(President) と呼んだ。

 
 
5.Getting Some Fun Out of Life  (人生に楽しみを)

  やがて私はラジオや映画に出るようになった。
 デューク・エリントンをフィーチャした短編は、ミュージカルにちょっと物語がついた
 もので、私は感動的なブルーズを歌う機会を得た。
 しかし役柄は商売女でヒモが私を殴り倒すことになっていた。

  最初の撮影日に20回も私は殴り倒された。
 2日目もあわせると50回もぶっ倒れたろうか?
 私はこの映画をスタジオで1回だけ観た。1回だけでたくさんだった。
 一体どこで上映されたのか知らないが、つまらない作品だった。


  − このフィルムはYouTubeにアップされている。
     ヒモに殴り倒されたビリーが、切々と嘆き悲しむブルーズを歌うシーンがある。
     大半はエリントン・バンドの演奏シーンだが…

 
 
6.Things Are Looking Up (好機到来)

 カウント・ベイシーとの演奏旅行

  私はお金の魅力と各地を見物できる楽しみにつられて、カウント・ベイシーの
 バンドに入った。
 それからの2年間、私はおんぼろバスの内側ばかり眺めて暮らし、25セントの金も
 家に送金できなかった。

  
(コロンビア・レコードの新進プロデューサ)ジョン・ハモンドがカンサスシティで発見した、
 カウント・ベーシーのバンドを引っ張り出し演奏旅行を後援した。
 ベイシーのバンドはすばらしい音を出していたが、まだ一流とはいえず、
 カンサスからポッと出の田舎バンドだった。」

  楽旅といっても
(夏は)暑っくるしく、(冬は)寒いボロバスで、(1日に)5〜600マイルも
 揺られ続けられるとは誰も教えてくれなかった。
 1日14ドル貰えるはずが、一晩のホテル代が2〜3ドル、美容代、クリーニング代などで
 日に1ドルそこそこしか残らなかった。

  旅行の間中いつも財布には2〜3ドルしかない。
 そこで私はレスター・ヤングに頼んで、ダイズ博打で増やしてもらうことにした。
 そのお金は最初の3ヶ月でレスターと私は文無しになってしまった。

  ミシガン州デトロイトではフォックスという、ニューヨークのラジオシティにあたる
 ひのき舞台と契約できた。
 ショーは白人女のラインダンスがあり、ニグロの男たちが同じステージに上がることに
 非難が集中した。
 またニグロのバンドでの私は少し白すぎる、人種差別者たちに白人と思われるかも
 知れないので、黒いグリースを塗れといわれた。

  旅の最後、ニューヨークへ帰るバスの中で、ママのところへ文無しで帰るのかと
 思うと悲しかった。
 バスの中で博打がはじまった。財布の中には4ドルしかない。
 私はレスターに頼まず自分で張っることにし、座り込んでダイスをまいた。

  レスターを後見人にしてニューヨークまでの12時間、私は座り込んでダイスを振り続け、
 下車するホテル前に着いたとき、私は1,600ドル以上を握っていて、バンド全員は
 文無しになっていた。
 私はバンドの連中に食事代と車賃をくれてやった。

 
 カウント・ベイシーのバンド

  当時のベイシー・バンドは彼らが楽譜を使わずに、16人のメンバーが一致して
 素晴らしいサウンドを出していた。
 それ以前のビッグ・バンドはベニー・グッドマンしか知らないが、いつも高価な編曲された
 大量の譜面を使っていた。


  しかしベイシーはどんなに金を使った編曲にもない何物かを持っていた。
 メンバーが集まると誰かが曲をハミングする。それを誰かがピアノにのせて1、2回弾く。
 すると誰かがそれにリフ
(レイン)をつける。最後に親分のベイシーがちょっと手を加える。
 それで素敵な編曲が出来上がるのだ。


  楽譜があったとしてもメンバーの大半は読めなかった。
 誰かが編曲を持ち込んでくるとバック・クレイトン、それにベイシーがザーっと歌い、
 悪いところを抜いたり取り替えたりすると、それでもう出来上がりで、
 編曲はもうあってもなくってもいいものになってしまう。


  ベイシーはこの方法で私のために、 "Love of My Life" と "Them Ther Eyes" を
 創ってくれた。
 すべてのことは耳に基づいて創られる。
 私がいた2年間、バンドは約100曲のレパートリーがあったが、最後の1音に至るまで、
 全員が頭の中に覚えこんでいたものだ。

 
 
7.Good Morning, Heartach  (悲しみよ、こんにちは)

  − 1937年3月ビリーの父、クラーレンス・ホリディがテキサス州のダラスで死んだ。
     ドン・レッドマンのバンドとの巡業先での出来事だった。


  ホテルで同室だったシドニー・カトレットが、そのときの有様を私たち知らせてくれた。
 
(肺炎に犯された彼は)治療してもらうために病院から病院へと歩き回った。
 しかしどこも
(黒人である)彼を診てくれるどころか、熱さえ測ってくれなかったのだ。
 最後に在郷軍人病院で黒人病室に入れてもらえたが、既に出血していて手遅れだった。


  − ビリーは後にこの自伝の表題である、
      "Strange Fruit"(奇妙な果実)の第9章で語っている。

   
 "It wasn't the pneumonia that killed him, it was Dallas Texas"
             『パパが死んだのは肺炎のせいなんかじゃない、
                         テキサスのダラスが殺したのよ』 と…

 
 
8.Travellin' Light  (みがるな旅)

  − この年の3月に人種差別が遠因で父を亡くしたビリーは、悲しみを癒すためにか
     また巡業に出る。
     しかし、その旅は彼女の悲しみと怒りを増大させ、次章の「奇妙な果実」を生み出す
     ことになった。


  ある晩、
(私が出演している)アップタウン・ハウスにアーティ・ショウがやってきて、
 新しいバンドのアイデアを話しはじめた。
 彼はなにかバンドにセンセーショナルなものを加えたいといった。

  私はいった、「センセーショナルなもの? やさしいことだわ、いい黒人歌手を
 雇いなさいよ!」。彼は私の出演が終わるまで一晩中待って、車に私を乗せて
 ボストンの初演に連れて行った。
 ジョージ・オールド、マックス・カミンスキーも一緒だった。

  私たちはローズランドに出演するが、すぐ近所にグレン・ミラーが、その少し先には
 エラ・フィッツジェラルドを擁するチック・ウェッブのバンドが出演していた。
 チックのバンドが一番名が通っていたが、それでも私たちのバンドはグレン・ミラーよりは
 知られていた。

  ニグロの女性歌手と13人の白人バンドをステージに並べた有様は、ボストンでも
 他のどこでも空前のことだった。
 初日を前に観客がどうとるかが問題になった。
 
(グレンミラーを育てた)クラブのオーナー、サイ・シュプリマンや、みんなが心配し
 はじめた。

  しかしアーティは人種問題など全く気にかけない男で、最初からバンドスタンドに
 
(白人歌手と)並んで私を座らせた。
 ボストンではすべてうまくいった。本当の試練は次のケンタッキーでやってきた。


  − Travellin' Lightという見出しは「みがるな旅」と訳されているが、
     次のケンタッキーの段を読むと内容にそぐわないように思える。
     しかし、それらの苦痛を皮肉ってのタイトルなのだろうか。

 
 (みがるでない旅

  (かって)インディアンの出没する山々を、幌馬車に揺られて横断した開拓者の女たち、
 私はアーティ・ショウと彼のロールスロイスに揺られて、15人の白人たちと西部に
 旅立った。
  しかし、山々に出没したのは下等な白人ばかりであった。


 
 ケンタッキーは南部を国境に面しているため、
(人種問題に)神経質な土地柄である。
 まず、私に部屋を貸してくれるホテルがなかった。
 アーティは腹を立ててバンドから8人を選び、ホテルに護衛していき無事に泊ることが
 できた。

  その町は保安官の独裁下にあった。
 街一番のダンスホールで開演した夜、この下等な保安官は餓鬼どもを半額で入れ、
 子供に酒を売るのを見逃し、私に「おい、ブラッキー
(黒ネエちゃん)」と、付けまわす
 ことに手一杯だった。

  セントルイスでもそうだった。街一番のホテルでの3週間の契約だった。
 出演前の練習中に老人のホテルのオーナーが入ってきた。
 「おい、あのニガーはなにしに来たんだ、わしは掃除にだってニガーは雇わん」。

  私はこの下等な白人をにらみ据えていった。
 「私はれっきとしたニグロよ、もし他のバンドよりうまくいかなかったら放り出してもいいわ、
 賭けなさいよ。」
 その夜、私はバンドの運命を背負って懸命に歌った。

  まず、"I Cry'd for You" 、ついで "Them Ther Eays" を歌い、最後に
 "It's Don't Meen a Sing When Ther Eint No Swing"
(スイングしなけりゃ意味ないね)
 を歌った。

  この曲の終わりに "Eint!" で言葉を切り、ついで "No!" で息を止め、
 今こそ陪審員の評決だと思いながら "Swing!" と決めて歌い終わった。
 満場の観客は立ち上がって歓声を上げ、口笛と拍手が起こった。
 私は感激して声もでなかった。私は最高だったのだ。
 我々は3週間の予定を6週間の続演となったのだ。

  しかしこの旅は
(前のベイシーと一緒で)NSCAP(有色人種向上委員会)がなければ、
 黒人は食べられず、眠れず、入浴もできなかった。
 旅の途中の食事にはバンドのメンバーに頼んで、食事をバスに運んでもらった。
 便所も困った。はじめの内は恥ずかしかったが、バスを停めて貰って道端の茂みで
 用を足した。

  − この章は16ページにもわたって、巡業でのさまざまな人種差別を語っている。
     ビリーは白人のジャズ・バンドと仕事をした最初の黒人女性であり、
     当時のアメリカでは画期的な出来事ではあったが、地方巡業を途中で打ち切り
     せざるをえなかった。

 
 
9.Sunny Side of the Street  (明るい表通り)

  七番街の133丁目にある(職を得てはじめて出演したクラブの)ポッズ・アンド・ジェリーズ
 から、4丁目のシェリダン・スクェアーまではたったの5マイルなのに、私は地球を一回り
 するよりも遠く、7年間もかかってしまった。

  間も無く私は新規開店のカフェ・ソサエティに出演することになった。
 クラブの持ち主はここは何の人種偏見もないクラブにするという。
 これこそ私が待ち望んでいたもので私は嬉しかった。

  
− カフェ・ソサエティは出演者も観客も人種を問わず同席できる、
     1939年当時のアメリカでは革新的なクラブであった。


  私の看板となった『奇妙な果実』が生まれたのは、このカフェ・ソサエティだった。
 この歌のエスプリはルイス・アレン
(という若い高校教師)によって書かれた詩にある。
 カフェ・ソサエティで会った彼からその詩をみせられたとき、私はすぐに感動した。
 その詩にはパパを殺したものが、すべて歌いだされているような気がした。

  彼は私に曲をつけることをすすめた。
 私は死物狂いに3週間もかかって曲を作り上げた。
 私には遊び半分で集まるナイトクラブの客に、この歌の精神を感じ取ってもらえるか、
 全く自信がなかったのである。私は客がこの歌を嫌うのではないかと心配した。

  私が最初に歌ったとき、あヽやっぱり歌ったのは間違いだった、心配していたとおりの
 ことが起こったと思った。歌い終わっても一つの拍手さえ起こらなかった。
 そのうち一人が気が狂ったように拍手をはじめた。
 次に全部の人が手をたたいた。

  今もってこの歌を歌うたびに沈痛な気持ちになる。
 パパの死に様がまぶたに浮かんでくるのだ。
 20年を過ぎた今
(1959年)でも南部では、パパを殺した時と同じようなことが起こっている
 から。

  
(後に南部の)マイアミのクラブで、2週間もこの歌を歌わずに通した。
 この曲を南部で歌うと必ず悶着が起こるから。私は最後にアンコールに応えて歌った。
 最後のフレーズに来たとき、私はここ数ヶ月間で出したことがない、激怒の迫力な声に
 なっていた。

  "Sun to Rot!" と歌うとピアノもアクセントをつけ "Wind to Suck!" と、この歌詞を
 はじめて出したような声で歌った。
 私はすべての観客を恨みのこもった一言で、打ちのめしていくような気持ちで歌ったの
 に、拍手はとてつもないほどの大きな音になり、ドレスを着替えた後でもまだ拍手が続い
 ていた。

 
 

          

 Southern trees bear strange fruit
                   (南部の木には奇妙な果実がなる)

 
Blood on the leaves and blood at the root 
                   (葉には血が、根にも血を滴たらせ)

 
Black bodies swinging in the southern breeze
                   (南部の風に揺らいでいる黒い死体)

 
Strange fruit hanging from the poplar trees.
                   (ポプラの木に吊るされている奇妙な果実)


 
Pastoral scene of the gallant south
                   (美しい南部の田園に)

 
The bulging eyes and the twisted mouth
                   (飛び出した眼、苦痛に歪む口)

 
Scent of magnolias sweet and fresh
                   (マグノリアの甘く新鮮な香りが)

 
Then the sudden smell of burning flesh.
                   (突然肉の焼け焦げている臭いに変わる)


 
Here is a fruit for the crows to pluck
                   (カラスに突つかれ)

 
For the rain to gather for the wind to suck
                   (雨に打たれ、風に弄ばれ)

 
For the sun to rot for the trees to drop
                   (太陽に朽ちて、落ちていく果実)

 
Here is a strange and bitter crop.
                   (奇妙で悲惨な果実)





             "Strange Fruit"
   

ビリー・ホリデイ年表(時代背景)
 
西暦 和暦 年齢 出来事
1915 T03 1 ビリー・ホリディ生まれる
1917 T05 3 ODJB史上初のジャズをレコーディング、第1次世界大戦開戦、ストーリービル閉鎖される
1918 T06 4 キング・オリバー、シカゴで大ヒットする
1920 T08 5 禁酒法開始される、ピッツバーグでラジオ放送が開じまる
1922 T11 7 キッド・オリー、黒人初のレコーディング、キング・オリバー、ルイ・アームストロングを呼ぶ
1923 T12 8 関東大震災
1925 T12 10 ルイ・アームストロングがホット・ファイブ結成し、ジャズ史上不滅のレコーディング
1929 S04 14 大恐慌、ビッグバンド流行し始め、ニューオリンズ・スタイルからシカゴ(スイング)スタイルに
1930 S05 15 初カラー映画"King of Jazz"撮影される
1933 S08 18 ビリー初レコーディング、禁酒法終了、シカゴ万博
1934 S09 19 映画「シンフォニー・イン・ブラック」に出演する
1937 S10 22 2月父クラーレンス・ホリディ死亡、3月カウント・ベーシーと巡業に出る、ベッシー・スミス交通事故で死亡
1938 S11 23 11月アーティ・ショーとの巡業破綻する
1939 S14 24 ビリー「奇妙な果実」を歌う」、映画「風とともに去りぬ」上映される
1941 S16 26 第2次世界大戦開戦、N.Y.でビーバップ! モダーン・ジャズがはじまる
1946 S21 31 母セィディ死亡、麻薬で検挙され収監される
1947 S22 32 映画「ニューオーリンズ」出演、ルイ・アームストロングと競演する
1959 S31 44 3月レスター・ヤング死亡、 レスター・ヤングの埋葬の時、レスターの妻はビリーに歌うことを拒絶、
その嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れる。葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられている・・・
「あいつ等、歌わしてくれなかった。この次はあたしの番だわ。」と。
6月麻薬所持で逮捕され警察の監視下で入院。7月10日病状が急変、死期が迫ったビリーのベッド
は長時間にわたって病院の廊下に放置され、17日早朝死亡後も長らく廊下のベッドに横になった
ままだったという。


 このコンテンツはビリーの自伝から、ジャズ・シンガーとしての記述と、人種差別の記述を抜粋してまとめた。
それは制作者の私のライフワークであるジャズと、それを生み出し発展させた黒人へのオマージュであり、
従って本編では、”Strange Fruit"の出現までを取り上げている。

 自伝の第10章以降の130ページにわたる、栄光と成功、挫折と悔悟は割愛した。それらの各章のタイトルは

  ・月に笑われて
  ・いい出しかねて
  ・誰も知らない
  ・苦しみに耐えて
  ・いいあれせぬ屈辱
  ・前後を忘れて
  ・ワルな男
  ・日の当たらぬ日々
  ・生涯の夢
そして、
 ・神よ! めぐみを
である。それら後半生のサマリーは、Wikipedia(和訳)を参照されたい。