首里城下散策中に多くの「御殿(うどぅん)」や「殿内(どぅんち)」に出会った。御殿には中城/松山/大美など、殿内は池城/真壁/玉城/豊見城/伊野波/識名があった。 御殿は文字通り王級の宮殿と推測できるが、殿内というのは邸宅内ということなのかよく判らない。 | 調べてみると御殿も殿内も邸宅を指すほか、居住者の尊称でもあったらしい ◯□御殿に住む人とか◯△殿内に住む人を表している。 では御殿と殿内の違いはなんだろうか、、おそらく地位の差であろうと推測するが… 琉球の廃藩置県直前の御殿と殿内を調べてみた: | ||||||||||||||||
【御殿】 | 【殿内】 | ||||||||||||||||
一般には琉球国王の親族たる、王子・按司の身分にある者が住む邸宅を意味し、 国王の離宮、最高神女・聞得大君の住む邸宅などにも使われた。 | 琉球士族の内の総地頭職にある親方(うぇーかた)家を指す尊称。広義には脇地頭家にも用いる。 王族である御殿の下に位置し高い格式を誇る家柄である。御殿と一括して御殿殿内(うどぅんとぅんち)と呼ばれ大名方とも呼ばれた。 | ||||||||||||||||
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間切(まぎり)は一般的に「村」を表すが、間切の総地頭(国家老? 殿様は王族の御殿)の下に脇地頭が置かれているケースもある。その場合も「村」なので反対に間切は「郡」に当たるが、現在の沖縄県には北から「国頭郡」・「中頭郡」・「島尻郡」に区分けされているので、やはり間切は村であろう。
その場合の脇地頭は大字の長ということなるのかもしれない。 |
殿内はもともとは御殿と同じように親方家の邸宅を指す言葉である。ここから転じて親方家のことを「……殿内」と呼ぶようになった。 この場合は濁音化してドゥンチと発音する。 殿内は脇地頭(上表の右3/4欄)職にある親方家にも用いられたが、この場合大名方とは呼ばれない。また同じ脇地頭職でも親方の下の親雲上(ペークミー)家や、 領地は有しないが格式のある士家に対しても殿内と敬称する場合があった。 他に首里三平等の神殿である首里殿内や、地方のノロ殿内のように格式のある宗教施設にも殿内の呼称が用いられた。 |
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琉球王朝の御殿と殿内を、グーグルマップで探した。ご当主が現存している首里城周辺の屋敷は、門中家譜誌記載の住所で場所がわかった。 その他の御殿・殿内は首里古地図で探し、マップ上で場所を特定した。 | |||||||||||||||||
(マークをクリックすると御殿・殿内の名称が表示されます) | |||||||||||||||||
より大きな地図で 琉球御殿殿内 を表示 |
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(クリックすると別窓で開き拡大することができます) | |||||||||||||||||
ほとんどの御殿・殿内が首里城の北麓にある。古地図では南麓にも親方(うぇーかた)や親雲上(ぺーちん)の屋敷が密集しているのに、なぜ北側に偏っているのわからない。按司・親方・親雲上などの位階・身分差か、古地図では東西南北の配置差はないが… | 門中家譜誌の現当主住所と、古地図の屋敷図とはほぼ一致しているようだ。ということは当時(1700年頃)と同じ場所に再建(沖縄戦で全滅)したようだ。 |