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首里城の建物がはじめて配置図として描かれた「熊本鎮台図」(以下、鎮台図)は、建物の四辺を紐・縄で測り手書きで描かれたと想像するる。 どの建物も正確な方形でなくいびつな矩形であることから推測した。したがって計測図というよりは配置概念図というレベルだ。 下に「横内図」を下敷きに発掘調査された遺構から、位置を確認し復元された建物群を現在の地図上に配置した絵地図と、鎮台図の縮尺と角度を合わせて上下に重ねてみた。一見して大きな差異点は正殿前の「御庭(うなー)」の形だ。方形と台形のの違いが明らかだ。 |
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現在の首里城図![]() 熊本鎮台図(明治13年頃) |
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実は御庭は「方形」でなく『台形』が正解で、明治中期の横内図でも昭和6年の坂谷図でも台形で、発掘調査の四方の遺構でも裏付けられている。
ただ、初期には方形であった時代もあったように言われている。なぜ途中からいびつな台形になったのだろうか? |
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御庭のいびつな台形の秘密は次回(b)に取って置くとして、鎮台図の建物配置は概ね現代図と一致しているようだ。 横内図(2)や現代図と比較して系図座・用物座の建物が描かれていない。当時には建物がなかったかはずはなく、後年の横内図にはしっかりと描き込まれている。 それにしても正殿が兵隊の宿舎と使用されていて、しかも正殿北東隅の西之当蔵が厠として用いられたとは… 西(沖縄では北をニシという)之当蔵は御内原の建物で、ナニに使われていたのか情報がないし復元の計画もないようだ。 【追駄言】 |