左端の青目玉がサクラメント、右端の赤目玉がオマハ、東西からの線路施競争の結果、左寄りの黄目玉で接続された
  
 アメリカの交通網は鉄道が建設されるまで貧弱なものしかなく、道路も整備が始まったばかりで水路に頼るところが多かった。鉄道もトロッコから始まり、やがてイギリスの影響などにより蒸気機関車の運行が始まった。最初の蒸気機関車による営業運転は1830年に始まった。

 1850年頃までにはミシシッピ川以東に鉄道網がほぼできあがったが、1850年になり初めて連邦政府による鉄道建設支援の取り組みとして、鉄道を建設した会社に無償で線路周辺の土地を払い下げる土地供与政策が始まった。

 南北戦争では鉄道の輸送力が、軍隊の機動性に大きな影響をもたらし、合衆国の連繋を固めるためにも鉄道が必要とされ、西海岸へ至る大陸横断鉄道建設のきっかけとなった。1862年、太平洋鉄道法が制定されたが、エイブラハム・リンカーン大統領の業績の一つでもある。

 鉄道は西部の農村と東部の大都市を結び、農村で生産された農作物を大都市に供給するとともに、東部の工業地帯で生産された工業製品を農村に供給した。1849年にゴールドラッシュでカリフォルニアでは、人口が急増しており鉄道が建設されることになった
 政府は予備的な調査で北部・中央部・南部の3つのルートを検討したが、土地も平坦な南部ルートは、奴隷州を通過するため政治的に問題があった。北部ルートは人口があまりに少なくかつ地形も峻険であったため、最終的にネブラスカ準州オマハからカリフォルニアへ向かう中央ルートが選択されることになった。

 太平洋鉄道法では鉄道の建設を支援するために、幅32 kmの公有地が鉄道会社に払い下げられ、建設資金の援助として平地では1マイルあたり16千ドル、山地では48千ドル、高原では32千ドルの30年期限鉄道債を政府が買い入れることになっていた。条件として勾配が22パーミルを超えてはいけないこと、曲線半径は最低約122 mとすることと、12年以内に完成させることとされていた

 同法によって、国策会社としてユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道とが設立され、1863年1月8日、サクラメントで着工記念式典が開催され、ユニオンパシフィック鉄道がオマハから西向きへ、セントラルパシフィック鉄道がカリフォルニア州サクラメントから東向きへ、大平原と大山脈と幾多の峡谷を乗り越えて、どちらの会社がより長い線路を敷設できるか競争が始まった。
 セントラルパシフィック鉄道の長さは1,110 kmである。カリフォルニア州サクラメントを出発し、同州を抜け、ネバダ州を横断し、ユタ準州のプロモントリーサミットでユニオンパシフィック鉄道と接続する。後に、カリフォルニア州のサンフランシスコまで延伸された。

 西からは、セントラルパシフィック鉄道がサクラメントを起点に鉄道建設を始めた。サクラメント・バレーでの工事は順調に進んだが、シエラネバダ山脈にさしかかると難航した。鉄道は中国人を中心とする移民を建設労働者として大量に雇い入れ、移民たちは冬のシエラネバダ山脈に降る雪にも耐えて工事を進めた。
 ユニオンパシフィック鉄道の長さは1,749 kmである。ネブラスカ州オマハを出発し、同州を横断し、コロラド準州を通って、ワイオミング準州、ユタ準州を通過して、同州のプロモントリーサミットでセントラルパシフィック鉄道と接続する。

 東からのユニオンパシフィック鉄道の経路は大平原で、平地であったため建設は順調に進んだが、インディアンの領土にさしかかると問題が発生した。インディアンたちは移住法に基づく強制移住によって、保留地に追いやられていたがしばしば建設労働者を攻撃し、鉄道は治安維持のために狙撃手を配置せねばならなかった。
 
 開通の時が近づくと、双方の会社とも、連邦政府からより多くの補助金を受け取るために、自社の建設する線路をできるだけ長くしようと争った。見かねた連邦政府は、両社の線路の接続する場所と日時を決めた。両社から調査団が派遣され、互いの会社の建設状況を監視した。着工から6年後、線路はついにユタ準州のプロモントリーサミットで接続された。
 1869年5月10日、開通記念式典が開催され、開通を象徴する黄金の犬釘(ゴールデン・スパイク)をハンマーで打ち込んだ。ハンマーと犬釘とが電信線で結ばれており、遠くの電信局でもハンマーの一叩きを電気信号により、ニューヨークでは祝砲が発射され、フィラデルフィアでは自由の鐘が打ち鳴らされてアメリカ中が狂喜した。

 当日はユニオン・パシフィック鉄道の119号機関車と、セントラル・パシフィック鉄道のジュピター号機関車を接続点で向き合わせて、月桂樹で作られた特別な枕木に金と銀の犬釘を打ち込む、ゴールデン・スパイクの式典が行われた。この瞬間、「初めてアメリカは1つの国家になった」と形容され、アメリカ史でももっとも重要な日であると考えられている。

 政府はこの鉄道を使って官製ツアーを募り、「窓からバッファローが撃ち放題」と宣伝した。列車で押し寄せる白人は面白半分に窓からバッファローを射殺し、インディアンたちをさらに怒らせた。バッファロー撃ちには「インディアン掃討」のため、彼らの食料を奪う組織的な虐殺のために鉄道が援用された。
 しかしこの時点で太平洋から大西洋までの鉄道が本当につながったわけではなかった。オマハはミズーリ川の西側にあり、対岸のアイオワ州との間の鉄道橋が1871年に完成し、サクラメントからはサンフランシスコ間の延伸され、これにより西海岸までようやく鉄道がつながった。  大陸横断鉄道の開通によって東海岸と西海岸との間の移動は、それまで陸上であれば数ヶ月を要していたものが、1週間に短縮されさらには1876年6月4日に運行された大陸横断超特急は、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分という記録を作った。
 現在では運行経路はほぼ当時作られた経路のままであるるが、開通記念式典が行われたプロモントリーサミットは、1942年にデンバーからソルトレイクへの、迂回路が設けられ放置されていたが、1965年に国立公園のビジターセンターが設置され、ゴールデン・スパイク国立史跡となり、往時の東西の蒸気機関車が向かい合って展示されている。  東海岸と西海岸とを結ぶ交通の主役が、大陸横断鉄道から航空機に移り変わって久しいが、現在でも、シカゴとサンフランシスコとの間を、アムトラックのカリフォルニア・ゼファー号が毎日運行している。また貨物輸送においてはコンテナを使った、複合一貫輸送のために大陸横断鉄道が活用されている。
 
本コンテンツの文章と写真は日米のウィキペディアから借用した