都市の城壁・城郭シリーズ
世界の路面電車「線路地図」作成から派生したコンテンツ
ローマ(イタリア)
(Wiki)
 イタリアの首都で政治、経済、文化の中心地である。市内にローマ教皇の居住するバチカン市国は全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、外国ではあるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。人口は約270万人でイタリアで最も人口が多い都市である。

歴史
 起源は紀元前8~9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼる。紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。紀元前6世紀の頃には、防衛の石垣城壁がローマを覆うように建設された。共和制ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。紀元前312年からはローマ街道の敷設やローマ水道の建設が始まった。64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施された。
 395年にローマ帝国が東西に分かれ、西ローマ帝国に属したが476年に滅亡した。6世紀中頃再び東ローマ領となった。ローマ教皇は教義問題で対立する東ローマから独立を果たす。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となり、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれ、15世紀末にはミケランジェロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。1797年ナポレオン1世はローマを占領したが、1870年、フランス軍の撤退後、1871年にイタリア王国にローマ教皇領が併合され、イタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。
 その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ムッソリーニが第二次世界大戦へ参戦により拡大は一時的に中止となった。第二次世界大戦後はヨーロッパを代表する観光都市として、また、イタリアの首都で政治や経済、文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。



 中央の河川西岸にサンタンジェロ城、その左の黒線で囲まれたのがヴァチカン市国。その国境線! をよくよく見ると、正面のサンピエトロ広場側はともかく、周辺は星稜型の城壁に囲まれていることが判る。東岸にいくつもの宮殿があるがウィキペディアでは詳しく書かれていない。



    右のサンタンジェロ城と左のヴァチカン市国はほんの隣同士



 サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。正面にはサンタンジェロ橋があり、わずかに離れた場所にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれている。皇帝の霊廟としてきれいな円形平面で139年に完成した。しばらくすると軍事施設として使用されはじめ、403年には城壁の一部に組み入れられた。14世紀以降は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、また、同時に牢獄や避難所としても使用された。なお、サンタンジェロ城は、1933年以降は博物館として利用されている。