都市の城壁・城郭シリーズ
世界の路面電車「線路地図」作成から派生したコンテンツ
リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)
(Wiki)
 リオ・デ・ジャネイロ(O Rio de Janeiro)は、ブラジル南東部に位置するリオデジャネイロ州の州都。ブラジル最大の港湾都市である。人口は600万人を超えており、サンパウロに次ぐブラジル第2の都市で都市圏人口は1,167万人。
 1960年にブラジリアに遷都するまではブラジルの首都であった。また、1808年にナポレオンに本国領土を奪われた、ポルトガル王室が遷都してから、ブラジルが独立するまではポルトガルの首都であった。

歴史
 1502年ポルトガル人探検家がグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民は彼ら白人を「カリ・オカ」(白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。
 1555年にフランスの植民地開拓者が居留地をつくったが、1567年にこれをポルトガル人は追い出し小さなコミュニティをつくっていた。17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。しかし18世紀前半に内陸で金鉱が発見された。この金の集散地は1725年にリオが金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地の交通と富の中心となった。1763年にはブラジル総督がリオにをブラジル植民地首府とした。
 1808年に戦争の勃発によりリスボンのポルトガル宮廷は、ナポレオン軍を逃れてリオに移転した。翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して、1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。1889年に帝政が廃止され共和制に移行するものの、リオは引き続きブラジル連邦共和国の首都となった。
 第二次世界大戦後に商工業が発展すると、内陸部や北東部から職をもとめて大量の人々が流入した。しかし、経済の重心は徐々に内陸部のサンパウロ市に移っていき、1950年代にはリオの人口はサンパウロに抜かれ、現在に至るまでリオはブラジル第2の都市となっている。また1960年首都はブラジリアに移され、リオは行政の中心地としての機能を失った。




 リオの湾口を防御する要塞、砲台、トーチカ;
リオとその対岸の湾が一番狭くなる、半島や岬、島嶼に戦略的な要衝拠点が今も残っている。そうした城砦の建設は海上戦の進化に伴い、長距離砲を中心とする要塞・砲塔・トーチカを湾口に配置した。左下がコパカバーナ要塞。



コパカバーナ要塞はビーチの端の小さな教会の先端だった。1763年ドイツから輸入した大小の大砲が半地下の要塞に設置されている。地下には作戦司令室や砲弾の収納庫、海軍兵の部屋などがあり、ドーム型の大砲部分は屋上に顔を出して、コンクリートの屋上に銀色の円錐形が並ぶ光景はちょっと近未来的だ。現在は博物館やギャラリーになっている。



 サンタ・クルース要塞はリオの対岸から、湾口に突き出た半島の先にある。フランスが1555年に作ったが、1567年にポルトガルが占領。1831年から1917年まで政治犯を収容する牢獄に使われた。今もブラジル国旗を掲げブラジル海軍の要塞として機能している。