都市の城壁・城郭シリーズ
世界の路面電車「線路地図」作成から派生したコンテンツ
ハイデルブルグ(ドイツ)
(Wiki)
 ハイデルベルク(Heidelberg )は、ドイツ南西部のライン川とネッカー川の合流点近くに位置する。ネッカー川や旧市街を見下ろす高台にある、かつての選帝侯の宮廷であった城跡や、ドイツで最も古い大学ループレヒト=カールス大学で知られる。この都市は14万人の郡独立市であると同時に、ライン=ネッカー郡の郡庁所在地でもあり、近隣のマンハイムなどとともにライン=ネッカー大都市圏と呼ばれている。

歴史
 紀元前500年頃からケルト人が防衛施設を有する大きな入植地を築いた。侵攻してくるゲルマン人に対抗するために二重の壁を巡らしていたことが分かっている。200年後にこれらの施設は放棄された。ローマは1世紀から3世紀まで存続し西暦70年頃に宿営地を築き、90年頃には石積みの城となっていた。260年以降ゲルマン人によってローマ人はライン川まで押し戻され、フランク王国の支配下に組み込まれキリスト教化された。
 1196年頃には司教領となっており、ケーニヒスシュトゥールの斜面に城塞が築かれ、麓にペータース教会を中心とする旧市街が形成された。ハイデルベルク城の前身の建物は13世紀に建設され、宮廷としての体裁を整えはじめた。1688年と1693年の2回フランス軍に占領され、ほぼ完全に破壊されたハイデルベルク城は中世の基礎の上に応急処置的に再建された。1720年宮廷がマンハイムに移ったことにより、政治的権力中枢の座を失い経済的にも衰退した。18世紀中頃にネッカー川に橋が架けられカール門が造られ、ハイデルベルク城の修復計画もあったのだが、1764年に落雷の被害に遭いこの計画は破棄された。
 1803年ハイデルベルク大学を国立の教育機関に定め再建された。1840年に鉄道網に組み込まれた後、観光業はハイデルベルクの重要な経済因子となった。ナチスが権力掌握後の1933年から組織的なユダヤ人抑留が始まり、多くのユダヤ人が強制収容所に送られた。第二次世界大戦を無傷で切り抜け、占領したアメリカ軍はドイツ軍兵舎を接収しキャンプベル兵舎と名付けた。現在も、この都市には、NATOの連合部隊本部、アメリカの陸軍本部が置かれており、数千人の軍関係者やその家族がこの街に住んでいる。







 ハイデルベルク城はドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている。1689年にフランス軍によって破壊され、1693年に一部だけが修復された。この城趾はアルプスの北側で最も重要なルネサンス建築の遺構を含んでいる。この城はケーニヒスシュトゥールという山の北斜面、マイン渓谷の底から約80mの高さに位置している。



 城の景観を特徴付けているロンデル半円砲塔(左上)は城の西側の防御とし大砲なども設置していた。もう一つの半円形に見える塔は火薬塔(右下)で、壁の厚さ6.5m、直径24mと戦争の時は持ちこたえたが、その後大量の火薬が爆発し塔が2つに裂け、外側の壁が掘に落ちこんだまゝである。