都市の城壁・城郭シリーズ
世界の路面電車「線路地図」作成から派生したコンテンツ
ナポリ(イタリア)
(Wiki)
 ナポリ(Comune di Napoli)は、イタリア南部・カンパニア州の州都で、ナポリ県の県庁所在地である。人口は約100万でナポリ都市圏の人口は約300万だが、古くから過密が社会問題になっている。
 イタリア以外の外国人が想像する輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージは、この都市が元になっている。1995年、世界遺産(文化遺産)『ナポリ歴史地区』として登録された。

歴史
 紀元前6世紀に古代ギリシア人の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス」(新しいポリス)であり、最初の植民都市から数キロはなれ、新しく建設された町という意味である。その後、ナポリは長くローマ帝国の支配下にあったが、476年の西ローマ帝国滅亡後、南イタリアは流動的な状況となった。
 6世紀になると東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がイタリアの再征服に乗り出し、イタリア半島は東ローマ帝国の属州となった。11世紀にはノルマン人が南イタリアに到来し、1140年ノルマン人の手に落ちた。12世紀には神聖ローマ皇帝の支配に移った。1224年には神聖ローマ皇帝がナポリ大学を設立した。1284年にナポリ王国が成立したが、1443年にシチリア王が内紛続きのナポリ王国を征服した。
 1494年にフランスがナポリを武力占領した。これに対してスペインは1503年にナポリを征服し、フランス軍を南イタリアから追放した。ナポリ王家は取り潰されスペインの支配される属州となった。スペイン継承戦争のさなかの1707年に、オーストリアの軍隊がナポリに入城し、スペインの総督は追い払われた。オーストリアの支配は1734年まで続く。ナポレオン戦争の間、ナポリ王は追放され、1806年から1815年にかけてナポレオンを王に戴くことになる。
 その後の1861年に成立したイタリア王国に併合された。



 左上にサンテルモ城塞、右中のヌオヴォ城と王宮、海岸にオーヴォ要塞



 右上のヌオーヴォ城に隣接して王宮と、広場を挟んで大聖堂が見える。ナポリ王宮(Palazzo Reale di Napoli)はナポリ王位についていたブルボン家の王宮。初期の王宮はスペイン王の居城で、建物は16世紀初頭からスペイン王の古い住居があった場所に建てられた。18世紀に入ると宮廷は海からの攻撃が及ばない内陸部のカゼルタ宮殿に移った。
 今日見られるのは17世紀に建築された宮殿であるが、火事で損傷した後に1838年に補修された。加えて、第二次世界大戦中の爆撃で受けた損傷により改修されている。現在の王宮と隣接した館は、劇場、美術館、国立図書館、観光局を含む官公庁の庁舎として使用されている。





 ヌオヴォ城(Castel Nuovo)は「新しい(Nuovo)城」を意味し、ナポリ湾に突き出た崖上のオーヴォ(卵)城と区別するために命名された。別名アンジュー砦とも呼ばれる。13世紀に度重なる戦闘の舞台となり大きく破損するが、15世紀から18世紀にかけて改築されて現在に残る。正面に3つの円筒形の塔を持ち、2つの塔の間に凱旋門が建っている。





 オーヴォ(卵)城(it:Castel dell'Ovo)は、港の小島に突出して作られた要塞である。もともとはローマ帝国が建築した豪華な別荘であった。11世紀にノルマン人がナポリを支配すると、要塞として機能を拡大するさい基礎の中に卵を埋め込み、「卵が割れるとき、城はおろか、ナポリにまで危機が迫るだろう」、と呪文をかけたことが城の名前の由来と言われている。後には税を納めるための倉庫に使われた。



 サンテルモ城(Castel Sant'Elmo)はナポリの町を見下ろすヴォメロの丘の上に建つ。1275年頃、初期の城郭が建築され、その後拡張された。 16世紀には、スペイン人がナポリを支配するところになり、星型の近代城郭へと改修された。