都市の城壁・城郭シリーズ
世界の路面電車「線路地図」作成から派生したコンテンツ
トリエステ(イタリア)
(Wiki)
 トリエステ(Trieste)は、イタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約21万人の基礎自治体。州都でありトリエステ自治県の県都でもある。
 アドリア海の最北部に位置する港湾都市で、ヴェネツィアの東北東約115km、スロベニアとの国境に位置している。

歴史
 紀元前3千年紀以後インド・ヨーロッパ語族であるカルニ人が定住した。その後、イストリア人が定住し、彼らはヴェネティ人がやってくる紀元前2千年紀までに主な文明を残した。紀元前177年、トリエステは共和制ローマの支配下に入った。カエサル時代にトリエステは植民都市の地位を授けられた
 1081年以降、大司教の支配下に入り、12世紀終盤より中世の自由コムーネとして発展した。その後1369年から1372年には、ヴェネツィアが事実上トリエステを支配した。
 1382年ヴェネツィア停戦合意し、17世紀まで自治権の一定部分を保持した。トリエステは重要な港湾と貿易のハブ地となった。神聖ローマ皇帝によってオーストリア領内における自由港とされ、1719年から1891年7月1日まで自由港のままであった。
 ナポレオン戦争中の1797年、1805年、1809年、3度に渡ってフランス帝国軍に占領された。1809年の占領時にはフランスに併合されが、1813年にオーストリアへ返還された帝国自由都市の繁栄を続け、オーストリア帝国直轄領の首都となった。帝国海軍も、トリエステの造船施設を使用し基地を置いた。
 第一次世界大戦後1920年に、ヴェネツィアと一緒にイタリアへ併合された。しかし、併合したことでトリエステは国境の町となり、ファシスト政権の台頭によって迫害を受けた。
 第二次世界大戦で1943年にイタリアが連合軍と単独講和し、名目上はイタリア社会共和国領となった。1945年ユーゴスラビア軍に占領された。その後、ニュージーランド軍がユーゴスラビア軍を退去させ、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置くこととされた。 1954年、トリエステ自由地域は解消されイタリアへ返還された。



         中下にサン・ジュスト城、左上がミラマーレ城



 旧市街のサン・ジュスト城はかつてローマの砦があった遺構の上に築かれ、1368年から1630年要塞として使われた。隣接するローマ宮殿跡を挟んで大聖堂などが配置されている。現在は軍事博物館がある。





 ミラマーレ城はオーストリア大公で、皇帝の実弟マクシミリアンの元で働いていたカール・ユンケルが、1856年から1860年の間に建てた。付属の庭園は、マクシミリアンの命令で集められ植えられた多種多様な樹木を持つ。2つの池を含む庭園内には礼拝堂がある。トリエステ自由地域に属していた頃、アメリカ軍の駐トリエステ・アメリカ軍本部が置かれていた。