都市の城壁・城郭シリーズ
世界の路面電車「線路地図」作成から派生したコンテンツ
テイミショアラ(ルーマニア)
(Wiki)
 ティミショアラ(Timişoara)はルーマニア西部トランシルヴァニア地方の都市。ティミシュ県の県都で、人口は31万人でルーマニア第4の都市。街の名はティミシュ川に由来する。

歴史
 1019年ティミショアラは初めて東ローマ帝国による文献に登場した。「ティミショアラの砦」の最初の記載は、1212年のハンガリー国王の布告に見られる。1307年ハンガリーの王がティミショアラを訪れ石の要塞を建設した。1315年から1323年の間、宮廷はハンガリー王国の首都になったティミショアラへ移動させられていた。14世紀の中頃からははオスマン帝国軍と、西側のキリスト教国の戦いの最前線になった。1443年からティミショアラに強力な要塞を建設し、トルコ人に対する軍の拠点として使用した。
 都市は、1462年、1476年、1491年そして1522年に、オスマン軍によって繰り返し包囲された。ハンガリーは1526年に壊滅的な損害を被ったが、ティミショアラは1551年10月までオスマン帝国に征服されることはなかった。オスマン帝国に侵略された後、要塞は再建され、オスマン軍の重要な軍事基地として使われた。ティミショアラには木と石の城壁に囲まれた、城と都市の2つの要塞化された場所があった。城壁の周囲の堀と200丁の銃が都市を守るために用いられた。1716年オスマン軍はオーストリア軍によって市から追い払われた。ハプスブルクの支配下で1723年に新しい石の要塞が都市の周囲に建設された。1781年に王立自由都市となった時期は、「ティミシュの上の城」と呼ばれた。
 1848年革命でセルビア軍によって占領され、1849年に新しいハプスブルク行政区の中心地になった。第一次世界大戦後の1919年、ティミショアラはルーマニア王国の一部となった。1989年チャウシェスクの指導する共産党政権に対する蜂起がティミショアラで起こった。この蜂起はルーマニア革命の始まりとなり、1週間後のチャウシェスク政権が崩壊し自由化された。



    中央の緑の館がフニャド城、右上の旗印は旧要塞跡の広場



 フニャド城は14世紀の宮廷の跡に1447年に建てられた。現在は博物館になっている。



                   旧要塞跡の広場